漂泊の自由律俳人、山頭火の句碑は全国に500基以上あると言われています。
その一つが、宇治市内の小さなお寺「皆演寺」にもありました。
花いばら ここの土とならうよ(なろうよ)
山頭火は防府市の大地主の家に生まれ、11歳の時に母が投身自殺、父は放蕩三昧・・・
と悲惨な少年時代を過ごしました。
その後、中学を主席で卒業し、早稲田大学文学部へと進みますが、在学中から運命の糸に
引きずられるように酒に溺れ、神経衰弱のため二年で中退、故郷へと戻ります。
結婚して一児をもうけますが、働いていた実家の作り酒屋が倒産、その後も職業を転々と
しますが、何事もうまくいかず、とうとう出家、43歳の時に妻子を捨てて行乞流転の旅に出る
ことになります。
人生の前半を見る限り、かなりの秀才であった彼が、小利口に世間と折り合っていれば
それなりの成功と幸福を得られたであろうはず?
しかし、そうした生き方ができず、酒に溺れ、どうしょうもない人生を送ってしまった彼には
母の自殺に始まる”生”そのものへの深刻な懐疑が根底にあったのではないでしょうか?
「風の中おのれを責めつつ歩く」「どうしようもないわたしがあるいている」
よく「何ものにも束縛されず、足の向くまま、気の向くままに歩いた山頭火は… 」と書かれること
の多い山頭火ですが、私にはどうも、この「どうしようもないわたし」を背負い、苦悩しながら
放浪する山頭火の姿しか浮かんできません。
彼はこの旅について後に「行乞記」を書くにあたって、冒頭の一節でこの様に述べています。
私はまた旅に出た━
所詮、乞食坊主以外の何物でもない私だつた、愚かな旅人として一生流転せずにはゐられない私だつた、
浮草のやうに、あの岸からこの岸へ、みじめなやすらかさを享楽してゐる私をあはれみ且つよろこぶ。
水は流れる、雲は動いて止まない、風が吹けば木の葉が散る、魚ゆいて魚の如く、鳥とんで鳥に似たり、
それでは、二本の足よ、歩けるだけ歩け、行けるところまで行け。
旅のあけくれ、かれに触れこれに触れて、うつりゆく心の影をありのまゝに写さう。
私の生涯の記録としてこの行乞記を作る。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます