本稿は、ある冊子の編集部の求めに応じて「高齢化時代に生きる」への
所見として纏めたものです。以前に本ブログに載せたものと若干ラップ
しますが、ご覧頂ければ嬉しいです。
私達は戦後に生を受け、昭和、平成、さらには令和の時代に生きながらえて参りました。
思えば昭和の戦後史を、そのまま身体に刻んできた世代とも言えます。
人生百年時代とも言われますが、健康余命を考えると、その終焉は目前と言える今、自らの来し方の一端を意識ある内に記し「高齢化時代に生きる」一助になれば幸いと思っています。
私は総合電機メーカーの本社に入社し、コンピュータ事業部に所属して以来、コンピュータの黎明期から四〇年余にわたって、主にホスト(大型)コンピュータのソフトウエア開発業務に関わって参りました。
また、コンピュータと言うデジタルの世界に身を置きながら、アナログの象徴とも言われる
「短歌」にも取り組んで参りました。「短歌周辺」「青青短歌会」という二つの短歌会に、同人として参加し、短歌の基礎を学び、「歌人クラブ」という全国組織にも推薦され加わり「現代万葉集」等への短歌の掲載も行って参りました。その過程で新元号「令和」の出典となった「万葉集」や「新古今和歌集」「源氏物語」等にも親しみ、多くの和歌から民族詩の源流等を学ぶことが出来ました。
その流れの中で、個人的な興味もあり、パソコンを使っての「短歌作成システム」の開発にも取り組んでみました。当時はAI技術も未だ確立されていない時代でしたので、短歌の素材となる五音、七音の語彙で基礎となるデーベースを構築し、新たに入力した言葉と、季節、生活、花、歴史等の変数を加味・混合し、パソコンの確率算定機能を駆使して、自然文の合成を行うという初歩的なロジックのシステムでした。この開発は個人的に仕事を離れて、休日等を用いて構想とは別に、実質三か月ほどを費やしました。
この経緯と結果は、私の短歌の師でもありました野村泰三氏との共著論文として月刊誌「短歌現代」(一九八五年二月号)に発表させて頂きました。歌壇からは少なからぬ好意的な反応もあったものの、大半は激しい批判の嵐に見舞われました。
曰く「コンピュータなどを使って、伝統のある短歌を製作するとは何事か・・・等々」。
結果的には第二弾のシステム開発は断念せざるを得ませんでした。その過程で、もう一人の短歌の師と仰ぐ紅林茂夫氏の「短歌は作り出すものではなく、内奥の叫びが昇華し生まれいずるもの」との教えに、深く魂を揺さぶられる思いがしました。
師の勧めもあり「月の歌人」と言われる明恵上人の短歌を、改めて深く学ぶ機会を与えられ、短歌の神髄に少し触れる想いが致しました。
そんな中で、四十代の後半に、構成メンバーが百二十名を越える携帯電話iモード関連の
ビックプロジェクトの統括マネージャーを拝命しました。ご存知の方も多いと思いますが、iモードとは携帯電話を用いて、インターネット を経由し、どこからでもコンピュータに繋がる技術です。今では当りまえの技術ですが、当時としては世界初の技術であり、画期的な夢のシステムでもありました。受注総額五〇億円超のプロジェクトで、ミレニアムを挟む三年余にわたる業務は、私自身のビジネスマンとしての在り方、生き方が問われる厳しいものでした。
プロジェクトマネージャーとして開発の第一線に立ち、客先や開発会社とは技術、納期、予算面等々からバトルにも似た激しい折衝を重ねて参りました。その流れで納期死守の観点から、今では許されませんが、メンバーには月150時間余の残業を強い、自らもその渦中に身を置きながら業務を遂行して参りました。
システム開発の最盛期はウイークデーの大半を、ウオーターフロントのオフィスに籠城し「不夜城の城主」との揶揄もされました。業務の過酷さ、客先からの無理難題等もあり、信頼する直属の部下のチームリーダーや、ホープの若手技術者の退職等が重なる辛く厳しい経験も致しました。統括マネージャーとして自らの力量不足を反省する日々が続き、自ら吐く言葉に刺々しさが増し、時として愕然とする思いに陥ることがありました。
そんな日々の中、たまに帰れる終電車に飛び乗り、通り過ぎた駅の灯かりが一つ一つ消えていく時、下手な短歌がこぼれる様に生まれる場面がありました。また、コーヒーブレークに、メモを片手に短歌の三十一音律に思いの一端を吐き出す。それは、ささやかな癒しでもありました。さらに、細君の献身的なサポートも痛む心を支え続けてくれました。このような状況下で生まれた短歌群から、三首を自選し紹介致します。
☆もの創る誇り支えに開発の 現場に一人 修羅として立つ
☆命をも人生さえも賭けてなお 悔い無き仕事とつぶやきてみる
※この短歌は石川啄木の短歌「こころよく我にはたらく仕事あれそれを
仕遂げて死なむと思ふ」への返歌として詠んだものです。
☆くちなしの匂い仄かに漂えり 眠り忘れし石の街にも
三年余にわたる綱渡りにも似た苦闘の末、所定の納期と品質でプロジェクトを完成し、なんとか納品することが出来ました。その打ち上げパーティーで、開発会社の代表の一人として挨拶する機会が与えられましたが、開発を共に担ったメンバーと共に、その達成感と充実感に満ちた至福のひと時を改めて味わい、分かち合うことができました。これは、私の半生でも戦友、さらには、生涯の友を得る貴重な体験となりました。この友らとの交流は今でも続いています。
当時のコンピュータ業界、特に携帯電話関連のシステム開発に関わる業界は、生き残りをかけたし烈な競争下にありました。二年前の技術は既に陳腐化し、日々の進化が求められる状況。その中で進化し自己変革ができない企業と技術者は間違いなく淘汰されていきました。
消耗戦といえる過酷な状況は、まさにブラックと言える状況ですが、世に喧伝されるブラック企業か、否かを分けるキーワード。それは「使命感を支える誇りをメンバー自身が持ちうるか否か、その成長と進化を促すリーダーの指導と、メンバーを使い捨てにしない熱い心くばりが、そこに存在するか否か」だと考えます。
個人的なホームページに載せた短歌とエッセーは、そのような状況下で紡ぎだされた「つぶやき」や「うめき」の集積でした。これら自作短歌を歌集として出版することは、当初は考えていませんでした。しかし、汎用コンピュータの黎明期から過酷な開発現場の状況に耐え、先端技術の創造に果敢に挑戦し、今日のIT産業隆盛の礎を作った技術者達。多くはその名前さえ記されず技術開発の闇の中に埋もれていく「地上の星」と言える彼らの崇高な歩み。その一端でも、この著書を通して記すことができればとの思いから、出版を決意しました。また、細君からの勧めも背中を押してくれました。
歌集の名称は、私の作詞した曲名より採りました。その歌詞は過酷な業務の中で傷ついた心を抱える、同僚たちへのエールとして紡いだものでした。ネットに載せた歌詞がたまたま、工藤慎太郎さんの目に留まり、彼のアルバム「ふたつでひとつ」でCD化されました。
彼は第三九回日本有線大賞において新人賞を受賞した若手有望歌手ですが、ライブ等では今でも歌い継がれていると伺っています。
その後遭遇した、多くの過酷な開発プロジェクトで、共に戦うシステムエンジニア達のもつ誇りに触れ、自らの覚悟と志を改めて自問して参りました。
その厳しさ、誇らしさを短歌に表現する。その営みのなかで、カタルシスと共に、癒しも味わい、新たな活力を得てきました。
そこから短歌は厳しい状況に立ち向かう、一つの糧であり武器になることを実感して来ました。そして、ノーベル文学賞作家、大江健三郎氏の唱える「文学の持つ魂の治癒力」の一翼を、短歌も担い得ることを、実感として学ぶことができました。今後も、短歌や作詞を通して、後輩たちへエールを送れればと思っています。
なお、2016年5月に長野県情報サービス振興協会に招かれ「コンピュータ・ソフト開発と短歌」との演題で、一時間ほどの講演をさせて頂きました。郷里の先輩諸兄へのささやかなエールになったら幸いと思っています。
了