四季の彩り

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「春秋」(「綜合詩歌」改題)誌鑑賞(14) 「木守りの賦」

2022年11月12日 09時04分12秒 | 短歌

-戦時下、空白の短歌史を掘り起こす その14-
    「木守りの賦」


 信濃路、佐久の高原の秋は短い。高原を輝くばかりの錦秋に染めた紅葉もいつしか散り初め、裸樹の枝が晩秋の空にまっすぐに伸びている。そんな裸樹の群生の果てに柿の古木がひっそりと立っている。頂き近くに赤い実が一つ、二つ取り残されている。

 夕茜を一点に集めたように鈍く光るその実は「木守り」と称される。啄ばむ鳥のためとも、翌年の豊穣の実りへの祈りのためとも言われている。ただ一つ取り残すという、長く受け継がれてきた村人の知恵。木枯らしにも似た北風の中で、凛として梢に残る赤い実の孤高さが心に沁みる。明日への希望を託すすべとして、悠久の営みの中で培われてきた村人の温かい眼差しと、敬虔な祈りにも似た思いをそこに見ることが出来る。

 しかし、こずえに独り残される柿の実の側に視点を転ずるとき、やがて来る冬の過酷な風雪と、鳥の啄ばみに独り耐えるその姿は鮮明な映像に重なる。大戦下の極限ともいえる情況の中で、懸命に耐え戦ったおみな達のけなげな姿に、そして、紺碧の空に特攻機を操った若き兵士達の悲愴な姿に、さらにウクライナの地で、今もなお繰り返される殺戮から祖国と愛する者を守るために、酷寒の地に踏ん張り戦うウクライナの民人達に重なる。

 「明日あること」への願いが、より切実であった大戦下の人々の思いを第二次戦時下の文学の世界から汲み取ってみたい。
「春秋」は「綜合詩歌」を改題し、この昭和十九年十月に第四号の発刊となった。本誌について前号に引き続き、短歌、歌論を中心に紹介し、鑑賞を行っていきたい。
 本号は、発刊の前月、九月二十日が第五回航空日であった関係から、その記念特集号的な色彩が濃く、巻頭作品は「神州空軍讃歌」と題して、大橋松平、佐藤佐太郎、高木一夫、上林角郎、野村泰三及び、中井克比古の六氏が稿を寄せている。これらの作品は、現存する各氏の歌集にも掲載されているものが少なく、作品としてばかりでなく、資料的にも貴重なものばかりなので抜粋し掲載したい。



 神州空軍讃歌
                     佐藤佐太郎
 ○青空のとほき涯より音しくる厳しきかも天のみいくさ
 ○空軍は敵にむかひて天ゆけばなべての上に震ふその音

                     上林角郎
 ○打ちつけて自もくだけたる その年齢を吾子に較べしときに涙す
 ○火の玉と墜ちゆきざまに叩きつけおのれ爆ぜつつ躊躇もなし

                     野村泰三
 ○いのち燃えて帰らぬ若鷲けふも思ひ戦果を聞きつつわが慰まぬ。
 ○日本が命とたのむ飛行機ぞ燃えて火となり敵に当たりぬ


 戦時下、第五回の航空日が設けられた当時の情況に若干触れたい。 サイパン島玉砕を初め、マリアナ群島玉砕後、ここを基地としたアメリカ空軍は、制空権を失くし無抵抗となった日本本土等に対する、大規模な空襲を開始した。
 その侵攻作戦は先ずフィリッピンを目指し、日本と南方との遮断を企てた。昭和十九年十月、フィリッピン上陸援護のため、アメリカ機動部隊は沖縄と台湾を空襲した。日本の基地航空隊はこれに反撃し、大本営は航空母艦十隻、戦艦二隻を撃沈する大勝利を得たと発表した。しかし、この戦果は、訓練不足の搭乗員が目測を誤ったために生まれた幻影に過ぎず、実際は一隻のアメリカ軍艦も沈めていなかったのである。

 アメリカ軍がフィリッピンのレイテ島に上陸するや、先の「戦果」でアメリカ空軍が弱体化したと信じた日本軍はレイテ島での決戦を企てルソン島から陸軍の大兵力を送った。しかし既に実質的に制空権も奪われた日本軍の艦船はいずれも途中の海域で沈められ、レイテ島への到着すら果たせなかったのである。

 このレイテ島での作戦で日本軍は劣勢を何とか挽回しようとあせり、初めて「特攻隊」を使った。なお、海軍として最初の組織的な航空機による特攻作戦を発令したのは、大西瀧治郎海軍中将である。これは1944年10月の台湾沖航空戦の敗北の結果、在フィリピンの大西中将が指揮する第一航空艦隊(一航艦)の稼動機数が僅か零戦40機程度に激減し組織的戦闘が不可能になっていた航空戦力を活用する為でもあった。

 本来、一航艦はレイテ沖海戦において突入してくる連合艦隊の艦隊上空の護衛を行い制空権を確保する手筈になっていたが、前述の台湾沖航空戦で受けた大打撃により残存兵力では作戦遂行不可能になっており、この作戦目的を果たすためには敵空母部隊の飛行甲板を一時的にでも使用不能にさせ、敵の圧倒的な航空戦力を麻痺させて、敵航空部隊の空襲を阻止する戦術しかとれなかったのである。

 この、敵空母攻撃をするにしても連合軍との兵力差は圧倒的であり、兵力が無い状態でこれを出来るだけ確実に遂行するには、爆撃機より速度の速い(敵迎撃網を突破しやすい)零式艦上戦闘機に積載上限一杯の250kg爆弾を積んだ上で、操縦者もろ共体当たりすることにより命中率を上げる戦術しかとり得なかったのである。
大西は生還を全く見込めない戦法を自ら「外道の統率」であると認識していたが、アメリカ機動部隊の航空戦力を一時的に麻痺させることは艦隊のレイテ突入支援に有効な戦法と判断し、実行を命じたと言われている。

 大西は1942年3月に海軍航空本部総務部長に就任して航空機生産に関わっており、部隊指揮からは遠ざかっていた。その彼が1944年10月に、急遽フィリピンにおいて第一航空艦隊の指揮を命じられ、現場に着任直後に特攻隊の編成を命じている。神風特攻隊のように兵力を激減させ、将兵の士気に衝撃を与える作戦を現地司令官である大西が独断で採用する権限はなく、源田実大佐他の軍令部が定めた特攻作戦を現場で実施に移したものと考えられている。

 この体当たり攻撃は始めこそアメリカ軍を驚かせたが、援護兵力もなく飛行機の性能も整備も悪かったため、学徒や青年航空兵ら若い兵士の尊い生命をいたずらに犠牲に晒していった。太平洋戦争の「天王山」と軍部も、政府も呼号し続けたレイテの敗戦は太平洋戦線を全くと言っていいほどに崩壊させた。 なお、この特攻作戦に反対した指揮官がいたことはあまり知られていないが、史実として記しておきたい。
 まず、部隊に打診のあった特攻作戦を撥ね付けて、これが黙認された第343海軍航空隊(343空)の志賀淑雄飛行長の例がある。この志賀飛行長の特攻作戦撥ね付けに当たって、戦後、志賀が残した証言によれば、度重なる特攻拒否に業を煮やした源田実大佐が隊舎を訪れ、志賀に特攻を受け入れさせようと圧力をかけたという。
 志賀が「わかりました。それでは特攻編成の最初の一番機には、私がお供をしますから、
あなた自身が出撃してください」と言うと源田大佐は顔面蒼白になり以後、二度と特攻攻撃の話を持ち出すことはなかったという。
 また、熟練者による夜間通常襲撃の有効性を主張し、特攻を指示する上層部を論破して終戦まで沖縄に夜間襲撃を続けた芙蓉部隊隊長の美濃部正少佐も部下に特攻をさせなかった人間として後世の評価は高い。
さらに、第203航空隊戦闘303飛行隊長であった岡嶋清熊少佐も、特攻には断固反対であり、国賊と言われても自らの部隊からは特攻隊を出さなかったと言われている。

 これらの情況、そして実態は、大本営と統制されたジャーナリズムの報道の中で、人々には直裁には伝わっていかなかった。しかし、情況の遷移を冷静に洞察できた少なからぬ歌人の目には、実態の片鱗が把握されていた感がある。この観点から「神州空軍讃歌」の歌を改めて味わうとき「讃歌」を越えて、そこには若い兵士達の死に寄せた挽歌の響きを感じ取ることが出来る。

 「讃歌」に作品を寄せた六氏の他に、本号に作戦を寄せた代表的歌人は、吉野秀雄、桜井政春、松本無存、上林角郎、桑山良、渡辺曽乃の各氏をはじめ二十八名の方々であった。 太平洋戦線の情勢は、前述のとおり玉砕、敗戦を重ね戦線からの撤退を余儀なくされ、ここを基地としたアメリカ軍機は十一月に入ると無差別に日本本土主要都市の空爆、焼夷弾攻撃を開始した。その中で、本土の戦場化と言う事態への推移が、恐怖感を伴う実感として人々を押し包んでいった。
 このような情況は代表的歌人の作品にも濃い影を落とし、その状況との相克が逆に作品に澄明な響きを生んでいる感が深い。この時代の過酷な状況に静かに対峙した先達たちの熱い伝言を抄出させて頂いた。


 実朝祭献詠                   吉野秀雄
 ○さすたけの君が祭りは近づきて金槐集にひと夜親しむ
 ○年どしにきみ祭る日はおのずから山蝉の声風にただよふ
 ○大鏡の君がくだりをひもとけばたちまち迫るとはの悲しみ

 童女疎開                    上林角郎
 ○父我に替るべき者の名は記せ吾子はたやすくわが死なざらむ
 ○一人のみ欠けたる子らは今日既に父さえ知らぬ陸奥にあり
 ○幼きを遠く疎開にやりてより黙りこむ妻に気づくことあり


 近況                      仲郷三郎
 ○ただならぬ戦のさまの胸にありてこの頃町を歩く事なし
 ○戦ひをま近く思ひ夜半さめて虫の音もなき闇を見詰めぬ
 ○戦勝の話題もなくて就寝前警報鳴らぬ事をのみ言ふ


 落葉集                     田島とう子
 ○アカシアの散りしく花を眺めつつ崩れむとするわが思ひあり
 ○つねに心にありとしいはばたはやすし夢にぞ人の顕ち返りくる
 ○我世すでに静かなるべくありしかど支えかねたる一つ思ひを


 迫り来る「本土決戦」への不安と、重苦しさに対峙しながらも、情趣豊かに詠った仲郷氏の「近況」一連。「虫の音もなき闇」の深さを静かに際立たせ、「嵐の前の静けさ」を思わせる、重苦しい時代の状況を象徴的に歌った歌でもある。

 本号では、紙面制限の関係から論文、随筆等の掲載に厳選の跡がうかがえる。しかし大和資雄の「航空機の歌」と題する論文を初めとして、鈴木一念、長谷川銀作氏らによる評論、作品批評等が意欲的に展開されている。
 特に長谷川氏の作品評は、本誌の選者の作品を批評したものであるが評者の踏まえるべき原点を厳しく教えられた思いがする。一部を抜粋すると・・・、

  「どんな場合にも歌を見くびってはいけない。お互いにもっともっと畏れなければ
   ならない。・・・いかに贔屓目に見ても詩らしい渾然たるもの、融化されたもの、
   感動、創意、発見、生命などの輝きが見出せない・・・。」

と言う批評が、厳しくかつ温く展開されている。歌評とは歌をはさんで作者と評者とが切り結ぶ真剣勝負なのだと改めて教えられた。血を流すにも似た痛みに耐えてこそ成長し、進化できるのだとも・・・。

 本号では、会員からの投稿歌を中井克比古、高木一夫、泉四郎の三氏が選者となつて、それぞれ「千日居詠草」「魚木亭詠草」「白光集」と題して三部立てで選歌を行なっている。これらの作品の中から、危急を告げる戦線と本土の戦場化等への不安に押しつぶされること無く、なお明日を希求する人々の魂が、その存在証明として紡いだ歌を中心に抄出させて頂いた。


 ○海守りて病みにし兵か枕辺に錨を染めし手ぬぐいのあり    岡本 武義
 ○月よみの光りさやけみ姑とわれこの野の果てに稲を刈り干す  石田 愛子
 ○ひそやかに心に浮かぶ想ひあり蛍を呼ばふ子供らの声     大田 瀬徳
 ○あどけなくしかも凛々しき瞳なりはじめて兵となりませる君  細井 愛子
 ○みんなみの光に屍くちぬともほむらなしわが怒りきよぬむ   榛名 貢
 ○病む君に寄する想ひは紫陽花の花にもまして儚きものを    阿部 鉄子
 ○魂祭り今宵は子等と縁に出て線香花火を少しともしぬ     原  恵子
 ○打ち震え為すべき事も手につかずサイパン島をきき終わりたり 廣田 博子
 ○今は既に心きめつつ腹にまく千人針ときてわが名を書きぬ   高梨 武司
 ○いず方に戦ひてあらむ待つ文の空しき今日も心疲るる     高梨 麗子
 ○征で立たむ人を送りて帰り来る夜更けのみちに馬追ひの鳴く  森田 英子
 ○たよりなき寂しさ故に触れずゐて我れにもあらず笑ひごと言ふ 柴山 勝江
 ○花一つ咲くにも今世につながれてありとし思へば愛しまれぬる 森田 清
 ○精霊を送ると宵の山のぼるたいまつの火の赤きひとすぢ    愛花 星水


 サイパン島、レイテ島をはじめ、危急を告げる南方戦線へ「あどけなくしかも凛々しき瞳」をもった少年兵達が、十分な訓練もなく続々と送られていった。又、兵として征く人を「送りて帰り来る夜更けのみち」に馬追ひの鳴き声を聞いてたたずむ女人。その胸に去来する想いの数々。 どんな時代にあっても、戦さは征く兵士に、また残される家族に、そして女人達に過酷な「もう一つの戦」を強いてきた。まして征でたつことが、そのまま死出の旅路を意味した大戦末期の人々の思いが、これらの歌群から伝わってくる。
抑制された表現の行間に滲む思いの深さを、たじろがず受けとめねばとの思いに駆られる。

 吹きすさぶ北風の中で夕陽を浴び鈍く光る木守りの柿。その孤高さに、あどけない瞳のままに海に散らねばならなかった特攻隊員の無念を、そして「いかないで!」の叫びを必死に呑み込み兵たる夫を、あるいは恋人を見送った大戦下の女人達の思いを重ねて見た。そして、夫や、恋人を残し、祖国を離れざるを得なかったウクライナの女人達の思いも・・・。

 明日の豊穣への願いをこめて大空へ捧げられた木守りの伝承。そこには自然への畏敬や祈りとは裏腹な、哀しい「いけにえ」の思想が読み取れる。歴史は死が美しく語られ鼓舞されるとき、いけにえの美学が、それを強いる側から繰り返し強調されて来たことを教えている。 人生の開花を実感することなく、幻の開花を胸に海原に散っていった若き兵士達。その無念を次の世代に伝えきっていくことが、その死と引き換えに生まれてきた私たち世代の大きな責務の一つでもある。熟柿は赤く燃え静かに揺らいでいた。      了


 主な参考文献
 「太平洋戦争陸戦概史」     林  三郎(岩波書店)
 「太平洋海戦史」        高木 惣吉(岩波書店)
 「大東亜戦争全史」       服部卓四郎(鱒書房)
 「昭和史」           遠山 茂樹・他(岩波書店)

注)本稿を掲載するにあたり、初稿はそのままに、ウクライナ情勢等を踏まえ、
  若干の加筆を行いました。   2022年11月12日

                     初稿掲載 2008年11月16日

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