素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

ランタナ

2023年11月25日 | 日記
 「夏の暑さの中で花咲く樹木を挙げろ」というクイズが出たら「ムクゲ」「スイフヨウ」「ハイビスカス」「キョウチクトウ」「サルスベリ」「ノウゼンカズラ」に外せないのが「ランタナ」。先の6つの木はその役割を終え来年の盛夏を彩るために休憩中だが「ランタナ」だけはまだ元気に花を咲かせ存在感がある。枝の方はさすがに伸びることはなくなったが、花は変わりない。「毎年そうだったのか、それとも今年だけなのか」と自問するのだが記憶が曖昧である。暴れ枝がおさまった分、可愛く感じる。
 

 いつまで花が楽しめるのかを観察してみよう。

 
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特定健診の結果が届く

2023年11月24日 | 日記
 11月7日(火)に、10数年ぶりに受けた特定健診が送られてきた。腹囲82.5cmは満足している。詳しくは忘れたが、基準の85cmを越えていたことは確かである。身長の高い、低いを考慮してくれないのか?!とブツブツ言った覚えがある。靴のサイズやズボンのウェストでも身長があれば大きな値になるのに腹囲が一律なのには納得できなかった。それでもやれるだけやってみようと取り組んだことが結果として見えたので現状維持を目指す。

 もう一つの課題だった、脂質検査は、HDLコレステロールだけが48mg/dLと基準範囲40mg/dL以上となったが、トリグリセライド(中性脂肪)基準範囲149mg/dL以下とLDLコレステロール基準範囲119mg/dLは範囲外の152mg/dLと126mg/dLであったが、以前は要受診と強く言われたが、今回は要指導となったので一歩前進かなと思っている。腎機能検査の中のeGFRも60以上に少し足りない59.4で要指導。

 とりあえず10年余りの間に取り組んで来たことは大きく間違っていなかったことはわかった。
 「鳥は飛び方を変えることはできない。
  動物は這い方、走り方を変えることはできない。
  しかし、人類は生き方を変えることができる。
  生きがいとは、自分を徹底的に大事にするところから始まる。」
は日野原重明先生の言葉。

 今回の結果を参考に、日常生活の中でより良い習慣を作っていくかが大切だと思う。次回は6ヶ月後ぐらいに特定健診を受けてみようと思っている。その間で数値がどうなるかである。検診の数値は自分を高めていく方向を探るための道標である。「習慣の壁」を乗り越えるのは結構大変だということは経験してきた。無理のない形でコツコツと積み重ねていくしかない。
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窓からの景色もやっと秋色に

2023年11月23日 | 日記
 部屋の窓から見えるヤマザクラとイチョウの木、今年は色付きが悪いと思っていたが、11月も残すところ7日余りとなってきたところで秋色に染まった。朝、カーテンを開けた時、陽の光に照らされた赤と黄が目に飛びこんで来ると「秋だなあ」と感じる。遠くの竹林との対比もいい。
 近くに住む知人から電話がかかってきた。窓ガラスと網戸をきれいにしたいので手伝って欲しいとのこと。88歳になられた方で、高いところに手が届かず、台に乗ると転ぶといけないからと言われると引き受けるしかない。背の高さを与えられた恩返しである。幸い、劣化した網戸がなかったので良かった。

 「勤労感謝の日だというのに申し訳ない」と言われたので「もう毎日が日曜日ですから、勤労を感謝される立場ではないですよ」と返し「中途半端な木曜日をずらして金曜日に持っていけば連休になるのに」と言うと「私が若かった頃は、新嘗祭(にいなめさい)といって天皇が新穀を神々に供える厳かな宮中行事がなされる日だったから絶対動かせない」と教えてくれた。

 2時間余りで網戸、窓ガラス各6枚をきれいにすることができた。コーヒーを頂きながらテレビをつけるとちょうど阪神、オリックスのWパレードの午後の部の真っ最中だった。阪神が御堂筋をパレードしていたが、人数の多さに驚いた。夕方のニュースでは、午前、午後で両会場延べ100万人とあった。クラウドファンディングでの寄付の低調ぶりからは想像できなかった。また、11月23日は「いいふみ」という語呂合わせで「手紙の日」でもあることから、手紙にまつわる話でも盛り上がった。年賀状をどうしようかと迷っていたが、個人的には続けた方が良いとアドバイスをした。

 3時過ぎにお暇したが、とりとめのないよもやま話が出来てスッキリしたと別れ際に言ってくれた。心のスス取りもできたなら一石二鳥。秋景色を満喫しながら自転車を走らせた。最後の上り坂も枯葉を踏む音を聞きながらだと力が出る。私も元気をもらった。




 
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松浦武四郎記念館

2023年11月22日 | 日記
 歴史番組で、北海道の名付け親ということで松阪出身の松浦武四郎が紹介されたことがあり興味を覚えていた。国道23号で伊勢、鳥羽、志摩方面に向かう時、雲出川を渡ってしばらく走ると記念館への案内表示板がある。何度か右折して行ってみようかと思ったが「面倒やな、まあいいか」とスルーしてきた。今回は関西文化の日の「無料」引力で松坂城跡からプラザホテル洞津へ行く途中に立ち寄った。思っていたより立派な外観だった。
 

 展示室を見て回るうちに、松浦武四郎という人はたぐいまれなる知識欲と冒険心を備え、多芸多才ぶりが伝わってきた。単に「北海道の名付け親」という一言で片付けられないと思った。
     

 江戸時代の終わり頃(1818年・文化15年)に今の三重県松阪市小野江町で生まれ、13歳から津の塾で勉強をしていたが、16歳の時に幼少の頃から抱いていた旅へのあこがれに抗しきれず一人で江戸まで歩いて行った。17歳になると日本全国を旅するようになり、いろいろな所を歩いて見てまわり、調べたことは何でもメモ帳に書いて多くの知識を身につけていった。
   そして26歳の時、どんな所かまだよくわかっていなかった北海道を、自分の目で確かめようと心に決め、28歳から41歳までの間に6回も北海道を探検した。古くから暮らしていたアイヌの人々に助けてもらいながらの道なき道を歩く探検であった。
 北海道を6回探検してわかったことをまとめ、たくさんの本や詳しい地図を作ることで、北海道の事や、アイヌの人々のことを全国に紹介したのが42歳から50歳。
   1868年(51歳)に大久保利通の推挙により
明治維新に開拓使の判官を務める。52歳の時、道名、国名、郡名をアイヌ語に基づいて上申し、アイヌ民族を指す古い言葉「カイ」を用い「北のアイヌ民族が暮らす大地」という思いを込めた「北加伊道」から「北海道」の名が誕生した。53歳の時、アイヌの人びとが安心して暮らすことができる北海道を目指して取り組んでいた武四郎は、江戸時代のような、商人たちによってアイヌの人びとが酷使される実態を改善しようと試みた。しかし、これに対抗した商人たちは、当時の開拓長官東久世長官に賄賂を贈り、それによって武四郎の意見は聞き入れられないばかりか、東京詰めの役人として、北海道へ行くことすらできなくなった。また、商人たちは開拓使内部で武四郎が孤立するよう仕組んだため、大きな政治の流れの中でたった一人ではどうすることもできなかった武四郎は、北海道開拓のあり方に強く反発して、辞職した。このとき、武四郎は今までの功績により、従五位の位を贈られていたが、それも返上した。気骨のある人だと感じ入った。辞職してからは、珍しい石や、古いお金を収集したりあちらこちらへの旅行と趣味に生きた。辞職後に名乗った雅号が「馬角斉」(ばかくさい)。これには笑ってしまった。
   68歳になって大台ケ原に登り、70歳には富士山にも登った。そして1888年に71歳で亡くなった。70歳の時全国の古社寺などから古材を取り寄せ自宅に畳一畳の書斎を作った。東京都三鷹市の国際基督教大学に現存していて、記念館には原寸模型が展示場入口すぐに展示されていた。実はこれで心を鷲掴みにされた。
  

 さまざまな価値観を受け入れる広い心、偏見を持たない眼、常に先を切り拓く力、尽きることない好奇心・・・武四郎の人となり、生き様に触れることができ良かった。館を後にする時「牧野富太郎と相通じるものがあると思った」と妻につぶやいた。
 2ヶ月ごとに展示資料を入れ替え、さまざまなテーマで武四郎を紹介するとあった。次回の企画展示は「武四郎の出版活動」で令和5年12月1日(金)~令和6年1月28日(日)の期間である。12月にも母の施設を訪れるつもりなので立ち寄ってみたい。今回の関西文化の日は「棚からぼた餅」であった。









 
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松阪市立歴史民俗資料館(2階小津安二郎松阪記念館)

2023年11月21日 | 日記
 松阪市立歴史民俗資料館(2階小津安二郎松阪記念館)は、母のいる施設から車で10分足らず、松坂城跡の一角にある。市役所の駐車場から歩いて7分。表門跡から入る。左手にあるイチョウがパッと目を引いた。資料館は右に曲がり急な石畳を上がるとすぐに見えてきた。
  
 
歴史民俗資料館は、明治45(1912)年に東宮殿下(大正天皇)行啓記念に建設された旧飯南郡図書館であった。昭和53(1978)年に資料館に生まれ変わった。本館と倉庫は国登録有形文化財である。玄関に飾られていた菊、一見、嵯峨菊だと思ったが、説明をみると松阪菊だとあった。
 

1階の民俗資料はよくあるものだが2階の小津安二郎に関する資料は懐かしくもあり興味深かった。明治36(1903)年、東京の深川の生まれだが「子どもは環境の良い郷里で育てたい」という父の考えにより、9歳から19歳までの多感な時期を松阪で過ごした。旧制中学時代、校則違反を承知で何度も通った「神楽座」で数多くの映画を見たことが、映画監督への道を選ぶことに影響を与えたといわれている。
   
「今度来るときは、桜の季節かな?」と思いつつ15時前に城跡を後にした。
 
 

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