流山おおたかの森駅南口の駅前広場では早くも年末のイルミネーションが点灯しています。パチパチ!
本格的なものでは無く、あくまで試験点灯なのでしょう。
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仏教では自死(自殺)に対してどのように考えているのかという質問を受けることがあります。
例えばキリスト教では、命は神様からの賜物なので、中絶や自死は認められていません。神に背いたとして、皆と一緒の墓地に埋葬されないなど、区別されてきた歴史があります。
※現代では、認めていこうという派もあります。
仏教の場合、よく知られた話としてヴァッカリ長者の話があります。
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熱心な仏教徒であったヴァッカリ長者が重い病にかかり、お釈迦さまに対して「自分はこの苦しみに耐えられない」と吐露します。
お釈迦さまはヴァッカリに無常を説いて帰りますが、その夜、鬼神があらわれて、お釈迦さまにヴァッカリが自ら命を絶つであろうと告げます。
お釈迦さまは弟子たちに「あなたの死は罪に汚れてはいない」という伝言を頼み、それを聞いたヴァッカリは「私はお釈迦さまを疑っていない」と返します。
やがて弟子たちが帰るとヴァッカリは自ら命を絶ったのでした。
これを聞いたお釈迦さまは「彼は涅槃に入った(成仏した)」と語ったといいます。【雑阿含経(一二六五)より】
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古来仏教では「死にかた問わず」と言われ、成仏に亡くなり方は重要視されません。どうやって生きたかが大切で、どうやって供養されたかがそれを補います。
ですので、どの経典にも、自死(自殺)すると成仏できないとは説かれていません。
ただ私個人は、若い僧侶に「仏教のどの経典でも~」や「ヴァッカリ長者が~」のように、いきなり語って欲しくありません。
もちろん教義や逸話は、僧侶個人の考え方の土台として大切に持っておくべきものです。しかしそれらは、あくまでウナギを焼くときの串のようなものだと思うからです。
串が無いとウナギの蒲焼は焼けませんが、お客さんにいきなり串だけを出しはしません。
同じように一個人としての僧侶が心からどう思うのかが、相手の知りたい聞きたいところではないかと考えています。
私たちが人生を「生きたか否か」は、どれだけ命と向き合ったか否か、とも言い換えられると思います。
その意味で、自ら命を絶った方は命と向き合い、命を生ききった方とも言えます。
残された私たちにとってはとても悲しいことですが、濃厚な人生を過ごされたであろうことは疑いようがないです。
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