お寺の本堂のバミューダ区域の大掃除をしました。
するとな、なんと、新聞紙にくるまれてお釈迦さまの仏像が発見されまちた!パチパチ!
『誕生仏』といってお釈迦さまが生まれたときのお姿です。身長は4寸ほど。
いつの時代のモノか見当が付かないので、奥ちゃまと相談して
「平安時代にお大師さまが唐から持ち帰ったモノとされている、ってことにしよう」
と決定。新聞の日付のところの昭和を消して、“へーあん時代”とマジックで書いておきました(ウソ)
これで来春、はなまつり(お釈迦さまの誕生を祝う会)が開けるじょ。
だんだん夢が形になってまいりました。後は徳川の埋蔵金が本堂の裏あたりで発見されるのを待つばかりです。
徳川の埋蔵金は群馬の赤城山中に埋められた、という説が有力です。
徳川の埋蔵金は1個の金塊が200キロはゆうにあり、それが25個あったそうです(もちろん諸説あります)。これを運ぶには1個あたり大人が4人。25個なら100人。どう考えても隠密裡には無理な話なのです。こっそり運ぶには、、、?
やっぱし当時ならば船でしょう。
ところで流山市の地名の由来は、赤城山の一部が大水で流されてきたという伝説によります。実際江戸川沿いの旧市街中心に赤城山とよばれる小山が現存し山頂には赤城神社が祀られております。
流山市は江戸から明治にかけて江戸川の水運で栄えた街です。現在の県庁にあたるものがこの地にあったことからも分かるように当時は大きな街でありました。江戸城から日光へ向かう為に江戸川を遡り、一旦流山で荷を降ろし、利根川へ向かおうとしたに違いありません。あるいは目くらましの為に、荷を降ろして空になった船はそのまま日光へ、、、いくらでも考えられます。いづれにせよ金塊は目の前にある小山、赤城山に隠し置かれた、、、!?
近藤勇が江戸幕府の再起をかけて流山に陣を張ったのも、実はこの埋蔵金(軍資金)があったからではないでしょうか。
結局近藤勇は捕らえられ、埋蔵金の行方は分からなくなる。赤城山というキーワードのみを残して、、、。
いかがですか?赤城山とは群馬ではなく、流山の赤城山なのです!
今のところこの学説を唱えているのは僕りんとうちの師僧と柴犬雑種のクロだけです。最近クロはめんどくさがって、全然ここ掘れワンワンしてくれません。
どなたか一緒に掘りません?
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