再建されて今年で268年、本堂は重厚な屋根瓦に守られています。ただ、寄る年波は争えないもので、手入れに気を抜くと、日本中の山や野原のように、この屋根にも外来植物のセイタカアワダチソウが根付いてしまっています。
ご本尊は阿弥如来様です。平安時代後期の作とされる木造阿弥陀如来坐像は愛知県指定文化財となっています。こちらは知多四国霊場の50番札所です。修行中の僧侶さんなのでしょうか丁寧に拝礼した後でお経をあげていました。
お寺の正式名称は鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざんむりょうじゅいんおおみどうじ)。源頼朝が伽藍を整備した後、豊臣秀吉さらに徳川家康の庇護を受けました。入母屋造瓦葺の本堂は宝暦4(1754)年に再建されました。
服部擔風は「墳上の木刀苔錆のごとく 松陰の魂魄蟹名を留む」と吟じ、謀殺された義朝と磔にされた長田父子双方の遺恨が今だこの地に漂っているとしました。知多ドライブで訪れた野間の地に奥深い歴史がある事を知りました。
境内の一番隅にある「血の池」です。義朝の首をここで洗ったと伝えられます。擔風は「碧血地邊行客の涙 飛花地に満ちて又情を痛まむ」;首洗池の畦には今落花も悲し気に散り敷き訪う人の涙をそそっている。と吟じています。
境内に源義朝公ゆかりの地として原色の大看板が立っています。とは言えここは義朝には無念の地です。「海門終古怒涛の声 禍(わざわい)蕭牆(しょうしょう;身内)に起こって恨み今だ平らかならず」と擔風は詠みました。
野間大坊(だいぼう)は真言宗の寺院です。正面に建つ美浜町指定文化財の大門は、源義朝が謀殺されて30年後、上洛途上の源頼朝がこの地に立ち寄り立派な寺院が建ち、父が供養されていることを喜び、寄進したとされています。
「ながらへし命ばかりは壱岐の守 美濃尾張をばいまぞたまはる」清盛に辺境の壱岐の地(いのち)を賜り、頼朝に美濃尾張の国(身の終わり)を賜った。長田父子は醜い甲羅の長田蟹に身をやつしたと言い伝えられています。