反省は、猿にでも出来ると申しますが内在神を宿す人間はなかなか難しいようです。
人は、他人を簡単に批判するのは得意です。しかし自分自身を点検し常に省みるのは不得意なようです。
例えば、職場等で人をとがめても自分自身をとがめることもなく、自分自身を大目に見てすぐに許しますが他人の場合は、絶対に責めて許さない上司や先輩などがいますよね。
どう考えても理不尽なのですが、そのような愚鈍なる人は部下や後輩を責めることにかけては、賢明となり知恵が廻ります。
そして宗教の教主、ブログの先生たちも本来、聡明であるのに自分自身を責めることに対しては、多くの方が愚鈍となるようです。
神の道でお金を頂いてはいけないと言いつつお金が入るシステムを造る教主や宗教を造らないと言いつつ宗教団体を創設する教主等、自分の都合のよい様にする教主は多数います。
いつでも自分が正しいと思い、他人を批判し独りよがりとなればそれが習性となって道から外れます。自分自身に一時の過失があってもそれに目をつぶり許せば、一時の過失が万事となり誤りがさらなる誤りとなり増えて行きます。
一念の誤りを制することが出来なければ邪悪はこれにより目覚め、反省することがなければ遂には、道を歩むことも出来なくなります。
内省することがなければ潜在している罪の意識が胸中をかき乱し、思考を混乱させ、霊台(心を定める土台)をくらまし、内在神を迫害します。そして人間としての幸福をも剥奪されるのです。
人生の最高たる智慧は、自分自身の病根弱点を熟知することを尊びます。故に己の道を修めるところの真の功夫は自分自身を省みて点検し内に省みてやましくないようにすることです。
内を省みる働きは、内なる神に還り見る(出会う)働きともなるのです。
「山中の賊を滅することは易く、心中の賊を滅することは難しい。」
老祖訓。「人は誰か過ちのない者がいようか、その過ちを隠せば、その過ちは真の過ちとなり、その過ちを悔いるがゆえにそれは過ちとならない。悔いると隠すの区分はほんのわずかの間に起こる。」
にほんブログ村
哲学・思想 ブログランキングへ
いつも応援ありがとうござんす。ポチっお願いしときやす。
人は、他人を簡単に批判するのは得意です。しかし自分自身を点検し常に省みるのは不得意なようです。
例えば、職場等で人をとがめても自分自身をとがめることもなく、自分自身を大目に見てすぐに許しますが他人の場合は、絶対に責めて許さない上司や先輩などがいますよね。
どう考えても理不尽なのですが、そのような愚鈍なる人は部下や後輩を責めることにかけては、賢明となり知恵が廻ります。
そして宗教の教主、ブログの先生たちも本来、聡明であるのに自分自身を責めることに対しては、多くの方が愚鈍となるようです。
神の道でお金を頂いてはいけないと言いつつお金が入るシステムを造る教主や宗教を造らないと言いつつ宗教団体を創設する教主等、自分の都合のよい様にする教主は多数います。
いつでも自分が正しいと思い、他人を批判し独りよがりとなればそれが習性となって道から外れます。自分自身に一時の過失があってもそれに目をつぶり許せば、一時の過失が万事となり誤りがさらなる誤りとなり増えて行きます。
一念の誤りを制することが出来なければ邪悪はこれにより目覚め、反省することがなければ遂には、道を歩むことも出来なくなります。
内省することがなければ潜在している罪の意識が胸中をかき乱し、思考を混乱させ、霊台(心を定める土台)をくらまし、内在神を迫害します。そして人間としての幸福をも剥奪されるのです。
人生の最高たる智慧は、自分自身の病根弱点を熟知することを尊びます。故に己の道を修めるところの真の功夫は自分自身を省みて点検し内に省みてやましくないようにすることです。
内を省みる働きは、内なる神に還り見る(出会う)働きともなるのです。
「山中の賊を滅することは易く、心中の賊を滅することは難しい。」
老祖訓。「人は誰か過ちのない者がいようか、その過ちを隠せば、その過ちは真の過ちとなり、その過ちを悔いるがゆえにそれは過ちとならない。悔いると隠すの区分はほんのわずかの間に起こる。」
にほんブログ村
哲学・思想 ブログランキングへ
いつも応援ありがとうござんす。ポチっお願いしときやす。