玄徳道

道を語るブログです。

潜修道

2012-05-30 03:38:58 | 地道
陰徳あれば陽報あり。道を歩む人は自己を誇ることを戒めます。驕れば滅びるのが天の摂理だと知るからです。
何故、潜(ひそか)に道を修めることが重要なのでしょうか。人には自己愛があります。真の自分自身を愛することは素晴らしいことです。それは内在神を大切にする意味であります。
しかし、エゴの自己愛とは、他人から愛されたい、良く見られたい、尊敬されたい等欲望がからみます。幕末の西郷南州(隆盛)さんは「己を愛することが善からぬことの始まりなり。」と申されているようですがエゴの自己愛の事を述べられています。
人は他人が見ている所では、偽善心を発揮し、善行を盛んにするようです。それが上司や教祖様であればよく見てもらおうとさらに偽善心を発揮します。ましてや自分が好きな人が見ていれば尚のことです。職場とかに要領がいい人がいると思います。
だけど、他人が見ていない所となると、怠けたり、スケベな事を考えたり、惰性で働くのであれば、たとえ他人が見ているところでよく働いても陰徳になりません。自己の心を偽っているだけです。ここが聖人、君子と小人との差であります。小人は、人の見えるところでよく働き、聖人は人の見えないところでよく働きます。

だからこそ君子はその独りを慎むのです。聖人はその見えざる所を修養の要(かなめ)にしているのです。
最初からの聖人はいやしません。自己の道を歩み研鑽し、他人が見ていないところで必死に努力をして道を修め、聖人と成るのです。

最近の教祖様は、どちらさんも自分を誇ります。霊的世界の前世も誇りますね。自分がお釈迦様の弟子であったとか聖徳太子だとか、ゾロアスター教の教祖だったとか、ダビデの王とか、おまけにミカエルだのスサノオだの神様まで出てきます。
道を歩む人は、このような事を誇り騙る道理はありません。

誰も知られずに道を歩み修める事を「潜修」と申します。誰に褒められることも望まず黙々と道を修めるのです。

「道は須臾も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり。この故に君子その見ざる所を戒慎し、その聞かざる所を恐懼す。隠れたるより見るるはなく、微かなるより顕なるはなし、この故に君子その独りを慎むなり。」

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