玄徳道

道を語るブログです。

天目への道

2012-05-28 21:25:16 | 考察
神様の姿が観える霊能者がおられたら、たいていのオカルト好きは驚き尊敬するのかもしれません。人が観えない世界を見て、過去を当てたり、前世や未来を予測したりされたら、驚嘆して、敬意の目で見てしまいますね。中にはこいつアホちゃうかと言う人もいますが。
神様に姿などあるのでしょうか。私の師、至聖先天老祖は「宇宙根源の炁であるので容(かたち)は無い」とされています。
無い姿が観えるのは想念の世界、幽界、霊界からの能力を得る人が観えるのかもしれません。

あるネット教祖は、人形で観える神の存在はレベルが低く、恒星や惑星形象で観えるのがレベルが高いとも申されているようです。
神の善悪を判定する為に、審神(さにわ)と言う方法がありますが、これは、あくまでも学問が主体で、理(ことわり)を主とするのが正道です。今の霊能者や教祖様の多くは自分の体験で判断されるようです。ある教祖様は最高の神様の気を知っているので、低い気は、即座に解かるとか言われています。だけど最高の気って何なのでしょうか。神様に最高とか最低とかランクを作っているのは人間様が勝手にしているだけなのです。

幽界の存在は、人を特別扱いさせ、教祖を別格にするようです。高次元の神が恒星のようだと意識すれば太陽で顕われます。気を意識する教祖にはその方が気に入る氣を出します。つまるところ、神様の存在が観える時点で、憑依されているだけです。

神様は、観える存在ではありません。修道を歩み、坐により開く天目はありのままに真実を見る目です。その働き造化が観えるのです。神社で神も観えません。人も動物形象で観えません。神社を見れば運化の働きを見、人を見れば仁の道理を見るのです。

霊視とはあくまでも想念(幽界)のみを見る目です。多くの教祖が予言をしますが外れるのは当然です。そこに未来など無いからです。ここに興味を抱く者は道から離れて行きます。そこに真理は無いからです。

神様が愛ならば、神の目は慈眼です。ここに奇蹟はありません。

「目に見えぬ神の心に通うこそ人の心の誠なりけり。」

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