基本的に今日も不調。読書が頭に入らない上、読書の時の視点(目で見る位置)がフラフラしてるし… どうにも集中できない時の症状。おかげで予定していたことは、半分もできませんでした。
今日は笠間賢二「小学校教員検定に関する基礎的研究―宮城県を事例として」(『宮城教育大学紀要』第40巻、2005年、229~243頁)を読みました。日本教育史の常識的な歴史認識からいえば、戦前の小学校教員養成は道府県の(尋常)師範学校で行われていた、というのが普通だと思います。しかし、小学校教員免許状を取得した教員の実態は、そのような歴史認識とは大幅にズレています。小学校教員免許状取得者のうち、師範学校卒業者は3割程度、残り7割はそれ以外の履歴を持つ者だったのです。師範学校卒業以外で小学校教員免許状を得る主要な方法には、道府県単位で実施されていた小学校教員検定試験に合格することがありました。笠間氏は、実態から乖離した師範学校中心の近代日本教員養成史像を問題とし、この論文で1900年~1920年代の宮城県の小学校教員検定を研究したわけです。
宮城県の小学校教員(本科・専科および正教員・准教員すべて含む)の6割~9割は、教員検定試験による免許状取得者でした。宮城県だけに限らないことですが、当時、正教員は慢性的に不足しており、教員検定はこの事態の打開策として運用されていたといいます。教員検定の方法は、無試験と試験(試験あり)の2種類に分けられました。無試験検定の対象者は、中学校・高等女学校卒業者(小学校本科准教員・尋常小学校准教員以上の免許状は教職経験が必要)、または県知事がとくに適任と認める者(教職経験年数と官公私設講習会の一定以上の受講時間をクリアーした者)などでした。小学校本科正教員(高等小学校・尋常小学校の教科を担当できる)の大半は師範学校卒業者でしたが、この無試験検定を通した免許状取得者が多い年度では6・7割に達することもありました。一方、試験検定は、学科試験と実地検定(実地授業・身体検診)によって構成されました。その合格率は20%程度という極めて難関なものであり、学科試験をパスしても実地検定で不合格となる者もいるという、かなり厳しい試験だったようです。ただ、関係者は少しでも免許状を所有する教員を増やしたいと思っていたわけですから、この低い合格率はとても容認できることではなかったようです。
試験検定の対象者は、それ以外の人々ですが、なかでも特徴的なのが宮城県教育会主催の講習会受講者でした。この教育会主催の講習会は、明治42(1909)年から尋常小学校准教員養成を、大正3(1914)年から尋常小学校本科正教員養成を目的に開催されました。しかも、講習修了後に臨時検定が開催され、合格者は該当する免許状を取得できるというものでした。大正3年度の尋常小学校本科正教員の合格者は、計77名のうち66名(85.7%)が県教育会主催の講習会受講者だったといいますから、たいしたものです。県教育会主催の講習会は、師範学校関係者を講師としました。彼らは試験検定の試験問題出題者でもありました。そのため笠間氏は、「教員養成講習会とセットになった試験検定というルートは、師範学校による第二の小学校教員養成場面であったということもできる」と結論づけています。
以上は笠間論文のまとめです。梶山雅史「京都府教育会の教員養成事業」(本山幸彦編『京都府会と教育政策』日本図書センター、1990年、437~498頁)でも指摘されていたことですが、講習会主催による府県教育会の小学校教員養成における役割は、従来の師範学校中心の近代日本教員養成史像を再検討させてくれます。府県師範学校関係者は、教育会に対して、講習会に限らず、基本的な組織構成や事業活動(とくに機関誌編集)にも強力に関係しています。その背景と併せてこの論文を読むと、明治後期以降の府県における府県教育会と府県師範学校の存在が、さらに大きく見えてくるような気がします。検定受検者の履歴、無試験検定の実態や郡市教育会の役割など、まだ課題が残っているようですが、非常に興味深く読ませていただきました。
集中力不足で視点がフラフラしながらも、一気に読み切りました。それはたぶん、教員養成史に対する大きな問題意識の中で教育会を捉え、史料によって教育会の役割を実証しているからでしょう。さあて、私はどこへ行けるかな。
今日は笠間賢二「小学校教員検定に関する基礎的研究―宮城県を事例として」(『宮城教育大学紀要』第40巻、2005年、229~243頁)を読みました。日本教育史の常識的な歴史認識からいえば、戦前の小学校教員養成は道府県の(尋常)師範学校で行われていた、というのが普通だと思います。しかし、小学校教員免許状を取得した教員の実態は、そのような歴史認識とは大幅にズレています。小学校教員免許状取得者のうち、師範学校卒業者は3割程度、残り7割はそれ以外の履歴を持つ者だったのです。師範学校卒業以外で小学校教員免許状を得る主要な方法には、道府県単位で実施されていた小学校教員検定試験に合格することがありました。笠間氏は、実態から乖離した師範学校中心の近代日本教員養成史像を問題とし、この論文で1900年~1920年代の宮城県の小学校教員検定を研究したわけです。
宮城県の小学校教員(本科・専科および正教員・准教員すべて含む)の6割~9割は、教員検定試験による免許状取得者でした。宮城県だけに限らないことですが、当時、正教員は慢性的に不足しており、教員検定はこの事態の打開策として運用されていたといいます。教員検定の方法は、無試験と試験(試験あり)の2種類に分けられました。無試験検定の対象者は、中学校・高等女学校卒業者(小学校本科准教員・尋常小学校准教員以上の免許状は教職経験が必要)、または県知事がとくに適任と認める者(教職経験年数と官公私設講習会の一定以上の受講時間をクリアーした者)などでした。小学校本科正教員(高等小学校・尋常小学校の教科を担当できる)の大半は師範学校卒業者でしたが、この無試験検定を通した免許状取得者が多い年度では6・7割に達することもありました。一方、試験検定は、学科試験と実地検定(実地授業・身体検診)によって構成されました。その合格率は20%程度という極めて難関なものであり、学科試験をパスしても実地検定で不合格となる者もいるという、かなり厳しい試験だったようです。ただ、関係者は少しでも免許状を所有する教員を増やしたいと思っていたわけですから、この低い合格率はとても容認できることではなかったようです。
試験検定の対象者は、それ以外の人々ですが、なかでも特徴的なのが宮城県教育会主催の講習会受講者でした。この教育会主催の講習会は、明治42(1909)年から尋常小学校准教員養成を、大正3(1914)年から尋常小学校本科正教員養成を目的に開催されました。しかも、講習修了後に臨時検定が開催され、合格者は該当する免許状を取得できるというものでした。大正3年度の尋常小学校本科正教員の合格者は、計77名のうち66名(85.7%)が県教育会主催の講習会受講者だったといいますから、たいしたものです。県教育会主催の講習会は、師範学校関係者を講師としました。彼らは試験検定の試験問題出題者でもありました。そのため笠間氏は、「教員養成講習会とセットになった試験検定というルートは、師範学校による第二の小学校教員養成場面であったということもできる」と結論づけています。
以上は笠間論文のまとめです。梶山雅史「京都府教育会の教員養成事業」(本山幸彦編『京都府会と教育政策』日本図書センター、1990年、437~498頁)でも指摘されていたことですが、講習会主催による府県教育会の小学校教員養成における役割は、従来の師範学校中心の近代日本教員養成史像を再検討させてくれます。府県師範学校関係者は、教育会に対して、講習会に限らず、基本的な組織構成や事業活動(とくに機関誌編集)にも強力に関係しています。その背景と併せてこの論文を読むと、明治後期以降の府県における府県教育会と府県師範学校の存在が、さらに大きく見えてくるような気がします。検定受検者の履歴、無試験検定の実態や郡市教育会の役割など、まだ課題が残っているようですが、非常に興味深く読ませていただきました。
集中力不足で視点がフラフラしながらも、一気に読み切りました。それはたぶん、教員養成史に対する大きな問題意識の中で教育会を捉え、史料によって教育会の役割を実証しているからでしょう。さあて、私はどこへ行けるかな。