教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

「生かされる」強制力と「生きていく」推進力

2008年02月20日 19時12分00秒 | Weblog
 明日、来年度に院生でいていいかどうか判断される私です。
 明日の資料を整理していますと、いつの間にか、今までの研究を振り返っていました。
 私の教育会研究は、2004年(実質的には2003年度中)、某学会に認められました。内容については未熟極まりないものです。ただ、ここで問題にしたいのは、学会で認められたという事実です。この事実は、途中で放り出すわけにはいかない、という思いを、私が持続するに十分な要因となってきました。学会に認められたという事実は、これまでの私にたくさんの教育会に関する論文を書く動機となり、実際に多くの論文の活字化につながっていきました。そして、今の私にも、教育会研究を続けさせる動機となり、今こうして博士論文にまとめあげたいと考えさせる動機にもなっています。自分の研究がどんなに「わからない」「ダメだ」と言われ、苦しみ、逃げたい思いに駆られようとも、自分はこの研究に向き合わざるを得ないのです。いわば、あの時の学会の評価は、私の研究に対する「強制力」になっているようにも思います。
 しかし、私にとっての教育会研究は、学会での役割であると同時に、自分自身が論文を書いたり研究を進めたりするように「今を生きていく」動機にもなっています。私は「生かされる」のではなく、「生きている」のであり、「生きていく」のだと思っています。そのため、某学会で認められたという事実は、できれば私の研究に対する「強制力」ではなく、「推進力」と呼びたいと思います。
 そもそも私の教育会研究が始まったのは、修士論文の作成にあたってテーマを探している際に、『信濃教育会雑誌』と『大日本教育会雑誌』の復刻版に出会った時からでした。当時の私は、教員の専門性を考えるにあたって、教員以外の意見を顧みない閉鎖的な専門性ではいけない、素人に支配されるような中身のない専門性でもいけない、せめて教育に直接間接に携わる人々の意見を取り入れるような「柔軟性のある」専門性でなくてはならない、と考えていました。教員の専門性を考える時、職能団体抜きで考えることはできないことも、卒業論文作成の過程で知っていました。そのような中で、教員だけの団体ではなく、教員を含む様々な立場の教育関係者の団体である教育会の存在を知り、それぞれが雑誌の中でハッキリ意見を述べている様を見た時、私は教育会を研究したいと思うようになりました。私の教育会研究は、学会に認められたことによって、やりたくもないのに強制されることになったのではなく、もともとやりたいと思っていた中に様々な障害を乗り越える条件を得て、さらに推進されることになったのだと思います。
 明日どんな結果が出るかはわかりません。また、現在進行中の「掲載決定見直しの可能性をはらむ論文修正」の作業も、どんな結果が出るかわかりません。でも、修士1年の頃から6年間(前段階として卒業論文作成も含めると8年間)続けてきた教育会研究をやめることはないと思います。所属講座や学会に認められないくらいの理由で、教育会研究をやめる、すなわち「生きていく」ことをやめるわけにはいかないのです。
 失敗すればやり直せばいい。私はまっすぐ前に生きていきたい。生きていきたいから、どんなにみっともないと思われようが、やり直し続けたいです。

 明日の審査を前にして、だいぶ感傷的な文章になってしまいました。たぶん、今を生きるのがとても苦しい、でも立ち向かわなきゃ、という気持ちのあらわれだと思います(笑)。いつの間にか、私にとっての研究とは、生きることと同義になっていたようです。今日振り返って、気づくことができてよかった。
コメント
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