人とチームで仕事をするのって、難しいですね。でも、一人ではできないことができるのはすごいことですね。
さて、以下、昨日の続きです。
(2)潜在的カリキュラムとしての保育者
保育者の人格・行動様式は、子どもに大きな影響力を有するというのは、伝統的にも実際的にも確かである。実は、保育者(教師)の人格・行動様式が子どもの認知的変容とどのように関係しているのかは、きちんと実証されているわけではない。潜在的カリキュラムの効果は非常に複雑であり、教師の人格・行動様式の影響を特定することは難しいからである。ただ、両者の関係についてわかっていることもある。わかっているのは、子どもたちに現れる教育成果は、教師の行動様式の豊かさに依存しているということである。
よい教育をするためには、教師が、様々な子どもや環境の状況に応じて、適切に判断・行動することができなくてはならない。保育者は教育の担い手でもあるから、保育者についてもこのように言えるだろう。教師・保育者のこの人格要素がこのように影響する、この行動特性がこのように子どもを変える、などのようには明確にわかってはいない。しかし、少なくとも保育者は、子どもにとっての適切な判断・行動について様々に理解し、それらを自ら実行できる力量が求められることは間違いない。
保育者の持つ潜在的カリキュラムには、次のようなものが挙げられる。すなわち、①子どもへの接し方、②発言・発問様式、③指導の熱意、④クラス経営の姿勢、⑤服装・髪型・所持品、⑥生き様・生活態度、⑦体験談、⑧口調・行動様式・しぐさ・癖、である。これらが潜在的カリキュラムとして機能し、様々な教育的・非教育的(教育的でない)・反教育的(教育的に反する)影響を与えている。
子どもへの接し方には、子どものかかわりを促すものと妨げるものの2種類がある。かかわりを促すような(子どもがかかわりたくなるような)接し方の条件には、技術的な面も無視できないが、根本的には、安心感を与えるような受容的態度、共同意識や場の共有による親しみ、子どもの興味を引き出すような魅力などがある。これらは、保育者本人が自覚しているよりも、「優しそうな先生」「おもしろそうな先生」などのように、子どもにそう見えることが重要である。自分では受容的だと思っていても、子どもにそう見えなければ意味がない。かかわりを妨げるような(子どもがかかわりにくいような)接し方の条件には、子どもに不安・恐怖・警戒・無関心を与えるような態度などがある。これらの接し方によって、子どもたちに様々な教育的・非教育的・反教育的影響を与えていることを意識しなくてはならない。
保育者の発言・発問様式については、子どもの知的発達上、重要な意味を有している。たとえば、「それでいいの?」「どういうこと?」などの発問様式については、子どもが自ら問題解決をしている際に機能する思考様式に影響していく。保育者が物事に関心薄く、あまり問わない場合、子どもたちに物事を問う態度・思考様式は育ちにくくなる。
指導の熱意やクラス経営の姿勢については、子どもたちの活動意欲や子ども-保育者関係のあり方などに影響するものと思われる。例えば、保育者が子どもの指導やクラス経営に消極的であれば、指導機会が減少するだけでなく、「先生は自分を見ていない」と子どもが感じ、子ども-保育者関係が十分に形成されない可能性がある。保育者が子どもの指導やクラス経営に熱心であれば、子どもが保育者の意図や期待に共感・反応して、活動意欲を高めることもある。ただし、保育者が的確な子ども理解を欠いて、熱心に行う指導や支援が子どもの発達状況に応じていない場合は、子どもの活動は適切に引き出すことはできない。熱心でさえあれば、子どもの活動意欲を高めるわけではないのである。
服装・髪型・所持品、生活態度、口調・行動様式・しぐさ・癖、およびそれらを口述した体験談などについても、子どもの発達上(とくに生活習慣の形成上)重要である。これについては後述する。
潜在的カリキュラムは、一般的に、無意識的・無意図的なものである。そのため、コントロールすることは難しい。しかし、保育者の潜在的カリキュラムは自分自身のことである。意識することさえできれば、自分である程度コントロール可能なはずである。意識するには、自分の言動が子どもたちにどのように影響しているのか、常に確認していく努力が必要であろう。自分の言動の教育的意味を知ったとき、よい影響は維持・促進し、悪い影響は改善したいと思うはずだからである。
(以下、続く)
<主要参考文献>
(略、「子どものモデルになることとは?―保育者(教師)自身を計画する(1)」を参照のこと)
(以上は、白石崇人『保育者の専門性とは何か』幼児教育の理論とその応用2、社会評論社、2013年に所収しております)