教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

子どものモデルになることとは?―保育者(教師)自身を計画する(3)

2011年09月16日 23時55分55秒 | 幼児教育・保育

 幼児教育・保育では、子どもの生涯にわたる人格・生き方の基礎となる、習慣的な行動様式・考え方などを身に付けることを目指します。生活習慣に関する指導・支援は小学校以降の教育でも大事ですが、幼児期に形成された習慣の重要性を考えると、幼児教育・保育におけるそれの重要性は小学校以降の比ではないと思われます。保育者は、幼児教育・保育の担い手だからこそ、より「子どものモデルになる」必要があるように思います。


2.子どもに対するモデル―「先生」という教育方法

(1)子どもの「まねる」力にもとづく保育
 保育者は、常に子どもに見られている。そして、まねをされる。幼稚園ごっこの先生役をしている子どもが、実は自分(観察者である保育者)のまねをしていた、というのはよくあることである。「まね」は、創造性のない行為として低く評価されがちであるが、その実、見たり体験したことを子どもなりに理解・記憶・再現するという高度な知的・情緒的行為である。他者の行動を観察しながら、その行動を学ぶことをモデリングという。モデリングは、興味関心をもつ対象へ注意を向け、観察し、同じ事をやってみようとする主体的行為であり、他者から刺激を受けて自分の行動をより豊かにする学習方法の一つである。悪意ある「まね」は論外であるが、ある意味、「まね」はモデリングの別名と言える。子どもは、保育者をまねて、様々なことを学んでいるのである。
 生活習慣とは、基本的には、大人のすることの見よう見まねによって獲得される。生活習慣の指導やしつけは、保育者が自分自身の生活の仕方を子どもに見せることから始まる。保育者は、子どもに生活の仕方(模範)を見せ、人間としてどのように生きるかを示すことについて、これを自らの役割と自覚しなければならない。
 善い生き方を被教育者へ伝える方法は、東洋世界では伝統的に、教育者の「徳」による感化を重視していた。「徳」とは、本性のままの素直な心にもとづく行いを意味する。「徳」という漢字は、「彳(テキ)」と「直(チョク)」と「心(シン)」とで成る漢字である。「直」は、「│」と「目」を足した会意文字であり、まっすぐ目を向けることを示す。「心」は、心臓を示す象形文字であり、すみずみまでしみわたる働き精神をあらわす。この「直」と「心」を足した「悳」は、本性のままの素直な心を意味する。これに「彳」を加えたのが「徳」であるが、「彳」とは、十字路をあらわす象形文字であり、進み行くことや道路をあらわす記号である。「徳」とは、頭でわかっているだけの善い生き方に関する知識ではなく、善い生き方・行為そのものを指し、さらにその行為を習慣的に行わしめる性格や能力をも指す。つまり、被教育者に善い生き方を伝えるには、教育者が善い生き方を説くのではなく、善い生き方そのものを自ら実践することが必要だというのである。
 子どもの「まねる」力や伝統的な感化論に注目すると、普段から何気なく行っている保育者自身の行動や振る舞いを子どもへ見せることは、子どもが生活習慣を身につける方法としてかなり重要な方法であることがわかる。その際に子どもに伝えられる内容とは何か。それは、保育者自身の生活そのもの、すなわち人格や行動様式にもとづく普段の生き方である。保育者の人格や行動様式が、保育内容になるのである。
 この考え方にもとづくと、身につけさせたい生活習慣の内容をただ教えるよりも、保育者自身がその習慣を実践して子どもに見せていくことの方が望ましい。無意識に見せてしまっているものも多いわけだが、見せることの教育的意義を知ったからには、できるだけ意図的に見せていくことを考えたい。例えば、子どもに「ありがとう」と言いましょう、と教えるよりも、保育者自身が子どもに用を頼んで「ありがとう」と感謝する場面を意図的に作ってみたい。
 (以下、続く)

<主要参考文献>
(略、「子どものモデルになることとは?―保育者(教師)自身を計画する(1)」を参照のこと)

(以上は、白石崇人『保育者の専門性とは何か』幼児教育の理論とその応用2、社会評論社、2013年に所収しております)

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