教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

子どもの権利を支える教師

2012年07月21日 23時55分55秒 | 教育研究メモ

 すべての国民は、基本的人権をもっている。
 このことは、日本国憲法の三大原則の一つである。

 小学校6年生の社会科では、基本的人権について、日本国憲法を教える際に必ず触れる。
 すべての国民が基本的人権を有することは、日本の小学校に通った人々は、必ず知っていることである。ましてや中学生ならば、必ず知っているはずの常識である。

 日本において教員免許状を取得するためには、必ず日本国憲法を学ばなくてはならない。
 すべての国民が基本的人権を有することは、日本の教員免許状を有する正規の教員であれば、必ず知っていることである。ましてや厳しい採用試験を突破した現職教員ならば、必ずその真意まで知っていなければならない常識である。 

 基本的人権の内容は様々であるが、その中には、健康に生活する権利が含まれる。すべての国民は、その人なりに健康に生活する権利をもっている。健康とは、身体のみのことではなく、心身が健康な状態を指す。すべての国民は、その身体を傷つけられず、安全な生活をする権利を有する。その心を傷つけられず、安心して生活をする権利を有する。
 この権利を実現するには、他人の権利を侵さないことが大前提である。すべての国民は、他人の健康に生活する権利を侵すことはできない。もし他人の権利を侵すならば、自らの権利を侵すことを許すことになる。それでは、互いの権利を侵し合う社会となり、健康に生活することは不可能となる。

 日本国憲法第12条には次のようにある。
 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
 すなわち、国民の自由と権利は、公共の福祉のために利用されなければならない。他人の健康に生活する権利を侵す自由・権利は、現代日本社会に生きる人間には、何人たりとも許されない。それは、国家社会の健全な存続とその構成員(自分を含む)の福祉(幸福)とをおびやかす。それは、公共の福祉をおびやかす。他人の健康に生活する権利を侵すことは、まさに公共の福祉の侵害であり、自由・権利の濫用であり、社会において許しがたい犯罪である。それは子どもであろうと、中学生であろうと、同様である。
 国民の権利は、国民自身が絶え間なく努力して保持しなければならないものである。健康に生活する権利は、何もしなくても当然のように得られるものではない。教育は、健康に生活する権利を保持するための、「国民の努力」の一つの現れである。教育に携わる者は、権利を正しく適切に利用できる国民を育成しなくてはならない。教師は、自らと他人の権利を正しく理解し、自らの権利を適切に用い、他人の権利を尊重する子どもを育てなければならない。

 教師は、児童生徒学生が他人の権利を侵すことを許してはならない。教師の職務は、受け持ちの子どもたちの人格を少しでも完成に近づけるとともに、社会の形成者たる日本国民を育成することである。他人の権利を侵す人間は、社会の形成者ではなく、社会の阻害者・破壊者である。教師の職務は、他人の権利を侵す人間を育てることではない。

 他人から権利を侵されている子ども、および他人の権利を侵す子どもの存在を知って、向き合おうとしない者は、教師ではない。そのような者は、日本国の教員として、その職務を果たすことはできないし、その資格もない。
 他人から権利を侵されている子ども、および他人の権利を侵す子どもの存在を知って、向き合おうとしない者は、教育関係者ではない。そのような者は、日本国民の権利を保持するための努力である教育を、支えることはできないし、支える資格もない。
 もちろん、権利の侵害者と一緒になって子どもの権利を侵すような者は、教師ではない。むしろ、我が国家・社会をともに形成していくべき日本国民とすら言えないのではないか。

 教員は養成校で養成される。教員養成に携わる大学教員は、自らを省みなければならない。
 教員は教育現場で育つ。現場の教員は、自らを省みなければならない。
 我々は、子どものために働くことを、教員に教えてきたのではないのか。
 子どものために働くとはどういうことなのか。我々は、その本質をつかみ直し、その真意に立ち返らなければならない。

コメント
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