教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

「明治13年東京教育会の教師論」「帝国教育会中等教員講習所」

2012年09月19日 22時38分58秒 | 教育研究メモ

 9月22日・23日は、お茶の水女子大学での教育史学会大会に参加してきます。→プログラムほか
 私は2つも発表が…

 22日には、10時から「明治13年東京教育会の教師論―普通教育の擁護・推進者を求めて」と題して、個人研究発表をする予定です。
 明治13年というのは、近代日本教師論の岐路に立っていた時期に位置するとともに、私立教育会結成最初期かつ教育会の全国的統制前という教育会史上にも重要な年です。そして、東京教育会は、大日本教育会・帝国教育会の最も早い前身団体として有名ですが、実は私立教育会としても最も結成の早い教育会の一つです(千葉教育会より結成年月は早い)。「明治13年東京教育会の教師論」というのは、私立教育会(明治10年代に結成され始めた恒常的組織としての教育会)の教師論の原点をさぐる上で重要なテーマとなります。この年が、東京教育会の転換点となったことを示すことができました。それは、ひいては中央教育会たる大日本教育会(帝国教育会)の教師論の出発点ともなっていきます。
 教育会は、「半官半民」「御用団体」と言われたり、「自由民権運動の流れを汲んでいる」などとも言われることがあります。しかし、いわゆる「官」と「民」という二項対立的なとらえ方では、教育会を的確に認識することはできません。教育会を認識するには、官と民の中間にある団体、というより、「官」とも「民」ともつながりつつ異なる、「第三の立場」としてとらえる視点が必要です。その視点は教職の自立性や専門性を意識することから生じると、私は思っています。職能団体といえばそうとも言えるかもしれませんが、それは多分に歴史性や特殊性を帯びていて、理念的な「職能団体」とは異なると言わざるを得ません。今回の研究は、そんな特殊な集団で形成され続けていった教師論の性質の根本にせまるような、そんな研究になったと思っています。
 このテーマは、10年前に東京教育会の研究を始めて(大日本教育会研究の手始めという始まり方でしたが)、ずっと問題意識をもって考え続けていたテーマでした。それがようやく納得する形でまとめられたと思っています。なお、史料は『東京教育会雑誌』第1号~10号をメイン史料として使っていますが、これは2004年の拙稿で使ったきり誰も使っていないものですし、今回ほど徹底的にに使われたこともない史料です。今回は、これを目一杯使っていきます。
 拙稿「全国教育者大集会の開催背景」(『続・近代日本教育会史研究』)や最近の拙稿と重ね合わせて聴くと、より面白く受け止めていただけるかと。歴史の進展と連続を感じ取れるはずです。

 23日には、15時10分から開催されるコロキウム「近代日本における教育情報回路と教育統制に関する研究(1)―明治後半期」で、梶山雅史氏とともに報告者となっています。私の報告は、「明治30年代帝国教育会の中等教員養成事業―中等教員講習所に焦点をあてて」と題して行います。
 明治30年代というのは、中等教員の需要と質への要求が急激に高まった時期です。そんな時期に、全国の教育会の中心的立場にあった帝国教育会は、どんな対応をしたのか。この時期、帝国教育会は、従来の講習会の拡充とともに、中等教員講習所の設置・運営という新しい事業を始めていました。明治30年代といえば、教育会における小学校教員養成の補完的活動の展開期とも言うべき時期です。
 なお、かつての教員養成史研究のように、師範学校以外は教員養成ではない、という観点しか持ち合わせなければ、この講習所は養成史ではまったく研究対象となりえません。しかし、今の教員養成史研究は、師範学校以外の養成ルートに目を向け、教員検定や講習会を利用した養成や、教育会における「もう一つの」教員養成に、注目するようになりました。小学校教員の多様な養成ルートはかなり具体的なものまで明らかにされてきていますが、中等教員の多様な養成ルートについての具体的な研究は、まだまだこれからです。
 実は、この帝国教育会中等教員講習所、まだ誰もちゃんと研究したことがないのです。『帝国教育会五十年史』すら取り上げていません(だからこそ、とも言えるかもしれませんが)。しかし、帝国教育会の機関誌『教育公報』を読んでいると、この講習所はかなりしっかり計画実施され、たしかに教育を行い、修了生を相当数出していたらしいことがすぐわかります。ちなみに、後に報徳運動のリーダーの一人になる佐々井信太郎も、ここで講習を受けた後、文検に合格して中等教員になっています。
 帝国教育会が、講習生をどこへ、どんな風に方向づけようとしていたのか。私個人の研究関心から言えば、帝国教育会は、(論説・口で言うだけでなく)教員(教職)を実際に具体的に改良するために、自ら何をどうしたのか。そしてどうなったのか。コロキウムのテーマに沿わせてみれば、教員養成のために教育情報(およびその受信・発信主体)をどのように活用・統制しようとしていたのか、中等教員養成にまで拡充していく教育会の歴史的役割がどのように機能したのか。そんな問題にかかわる研究になったと思っています。

 どちらも、日本教員史・教育会史研究ひいては教育史研究の発展に寄与しますように。

 研究の進捗を公開するため、適当に短く紹介しようと思ったはずが、また長文になってしまった…

コメント
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