教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教員の多忙化問題を解決するには

2016年03月09日 21時13分59秒 | 教育研究メモ

 この数日は少し忙しさがやわらぎました。

 さて、教員の多忙化は、このところずっと問題にされ続け、緊急の解決を要する重要な教育問題です。子どもと関わる時間が多すぎて忙しいという問題ではありません。必ずしもその教員しかできないわけではない業務に追われて、子どもと関わる時間がほとんど取れないという問題です。
 教員の多忙化は、単に物理的に忙しくて疲れるという状況を招くだけではありません。子どもと関わる時間が少ないということは、教員が子どものことを観察したり理解したりする時間が少ないということです。被教育者の実態を把握しなければ、よい教育などとてもできません。教員の多忙化を放置することは、教育の質を保証しないことと同義です。
 教員の多忙化は、教材研究や授業準備の時間を確保できない状況をも招いています。多忙な中で真っ先に削られたり、勤務時間外に追いやられるのが、教材研究・授業準備の時間だからです。この時間を確保できないと、授業の質や授業改善の機会を保証することはできません。教材研究や授業準備をしっかりできていないと、授業中に子どもの姿をじっくり見る余裕は生まれないからです。その意味でも、教員の多忙化は教育の質を低下させます。
 また、教育の質を落としたくないが教材研究・授業準備の時間を確保できないという真面目な教員たちは、どのような境地に陥るのでしょうか。研究・準備に時間をかけられなければ、当然、授業もうまくいきません。授業がうまくいかないと生じるのは、自信の喪失です。自信がなければ、各種パフォーマンスの質は落ちます。そういう意味では、教員の多忙化は、教員の自信欠如・喪失を招き、その結果、教育の質を低下させるのです。
 ここまででわかるように、教員の多忙化問題の核は、教員が忙しくて疲れているということではないのです。だから、休めばいい、休みを確保してやればいい、という方向では解決しません。解決のためには、子どもに関わる時間と、教材研究・授業準備の時間とを確保することが重要になって来ます。その意味では、たとえば最近話題になっている、部活動の外部委託では解決しないのではないかと思います。教員によっては効果があるでしょう。しかし、部活動指導を熱心にやっていた教員にとっては、子どもと関わる時間を失うことになります。そうなると、多忙化問題を本質的に解決することはできないでしょう。

 教員の多忙化の解決策は2つ考えられます。
 まず第一に、職場に事務職員を増やし、事務員の専門性を高めて役割分担を整理することによって、教員の事務作業時間を徹底的に削減・効率化することです。教員の多忙化は、事務作業時間(=事務作業量)の増加が原因です。その教員にしかできない事務作業というのは限られていますが、「手近な教員がやればいい、そのほうが早い」「教員でも作業可能である」という理由でたくさんの作業が教員に課されています。事務作業量の単純な増加だけでなく、職場の人員削減や前例踏襲主義の思考停止、教員の事務員不信がそれに拍車をかけています。このような問題を改善するには、まず長い間に培われた職場文化の見直しが必須です。
 教員には自分が抱えている仕事を手放す勇気や計画性が必要であり、教員が安心して仕事を任せられるためにも、事務職員の資質・力量・専門性向上が必要です。古来より、専門職には「助手」が必要です。専門職は自分だけですべての事をする存在ではありません。必要な「助手」になるべき人々の数を削減したり、その意義を無視したりすれば、教員が忙しくなるのは当然なのです。
 第二の解決策は、教育の質を保証・向上できる、教員一人当たりの適正な授業時間数を見極めることです。教員数を削減すれば、当然、教員一人当たりの授業時間数は増えざるを得ません。授業時間は、教員が子どもと関わる時間であり、減らせばよいというものではありません。しかし、授業時間を増やせば、その分その準備や教材研究の時間をも増やさなければ、教育の質は保証できません。また、子どもは授業時間だけに生きているわけではありません。授業数が増え、準備時間数が増えれば、授業時間外に子どもたちと関わる時間は減り、子どもを理解する機会を保証することはできません。授業時間数、およびそれに付随する授業準備・教材研究の時間数は、適正な時間数があるはずなのですが…。

 結局、教員の多忙化問題は、学校人事の発想を変えていかなければ解決できません。そのため、教育の質を向上させ、国家社会の発展と国民の福祉を向上させるためには、現代日本にはびこる人員削減・抑制の方針は非常にまずいと思います。多すぎても無駄であるが、現状を鑑みるに、減らしすぎたのではないかと疑うべきです。さらに、今後しばらく高年齢層の大量退職が続き、教職員数はどんどん減っていきます。子ども数の減少に合わせて教員数が減るのはかまわないという考え方もあるようですが、そもそも教職員数が足りていない現状があるのに、そんな状況を維持してはならないのではないでしょうか。

 なお、教員の多忙化は、小中高校だけではなく、大学の現場においても進んでいます。大学教員のやるべきことは、20年前くらいから、爆発的に増えているようです。大学に対する監督官庁の管理が強まって事務作業量が増える中で、助手・事務職員を中心に人員削減が進み、教員が事務作業を進めざるを得なくなったように思います。教員数もポスト数の減少によって減っています。しかも、18歳人口減少・大学過多の時代の中では、教育の質や学生指導を丁寧に行わなければ生き残ることはできません。かつて多く見られた、もっぱら研究(または学内政治・学会活動・地域貢献)にいそしみ、その合間に授業を行っていた大学教員はすでに「絶滅」しています。今よく見られるのは、もっぱら事務作業にいそしみ、その合間に授業と学生指導を行い、余暇・睡眠時間を削って研究を行う「大学教員」の姿です。
 大学が教育機関であるならば、せめて授業と学生指導とそのために必要な準備・教材研究にいそしみ、その合間に学術研究と事務作業を行うようなところまで持っていきたいところです(それでも地域貢献の行き場がありませんが)。その解決策は、やはり上述の通り、「助手」を務めるべき人々の数を増やすことと、授業時間数の適正化(その条件としての教員数増)です。

 ともかく、教員の多忙化問題は、物理的に忙しくて疲れることだけが問題なのではありません。休めばいいじゃない、では解決しないのです。

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