教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教師として出会う生き方

2010年04月28日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 教師をやっていると、いろんな生き方に出会う。
 えーっ、こういう生き方もあるのかぁ…というような、
 今まで生きてきた中で、出会ったことのないような生き方にも。
 自分の生き方からすると、とても理解できない生き方にも。

 学生たちが、やるべきことをやらなかったり、前向きに生きていなかったりすれば、指導していかなければならない。でも、やるべきことをやって、前向きに生きているが、その生き方が私には理解できない、という場合がある。自分には理解できなくても、彼ら・彼女らは、確かに前へと歩いている。これもひとつの生き方なのか、と、納得せざるを得ない。
 教育は、相手をまずは受け止めることから始まる。教育そのものは、被教育者をどう方向付け、どこへ導くのかが重要だが、それは結局教育できる関係を構築できた後のことである。それはすなわち、相手を受け止めた後のことである。相手を一人の人間として、自分と同じように生きている存在として、まずは受け止めなければ、教育はできない。教師が学生を一人の人間として扱わないならば、学生が教師を一人の人間として扱うことはないだろう。人間と人間とのかかわりが成立しないところに、人間と人間とのかかわりである教育が成立するはずがない。理解できなくても、これもひとつの生き方か、とまずは受け止めること。教師が本当に教師・教育者としてあることは、まずそこから始まる。
 理解できない生き方でもまずは受け止めることは、教師自身の成長にもつながる。そのとき教師は、多様な生き方を知り、多様な選択肢を知り、被教育者を知るだろう。それは、将来出会うであろう多様な被教育者を受け止める準備となる。そして、多様な生き方を知ることによって、教師は自らの生き方を見つめなおすだろう。そうして、自分の生き方をはっきりと見据え、選択することができるようになる。
 理解できない生き方に出会ったとき、教師は激しくゆさぶられる。しかし、そのときこそ、教師としてあることができるかどうか、試されているのである。自分がその人の教師であることができ、その上、教師としても、人間としても成長できる。それ以上に喜ばしいことがあるだろうか。
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