教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

履歴の分からない重要人物

2006年07月05日 19時51分01秒 | Weblog
 頭が痛い~…
 風邪が治りませぬ。治るどころか、入れ替わり立ち替わり違う症状が出てきて、大変。今日も昼頃出校。なんとか紀要論文の修正をし、Y先生にお渡しする。今日は返事ナシ。残念。
 頭痛に悩まされながら、紀要論文の続きになる部分の論文を書く。いつものごとく役員の履歴を調べているのですが、「木寺安敦」という人物の調査でつまずく。『東京都教育史』によると、東京市京橋区学務委員だったということではあるけど、手元にはまんまの資料はなく、手元の資料では確認できない。東京府教育談会の結成期から役員を務め、東京府教育会の役員も務めており、東京府の大物教育関係者であることは間違いないのですが、学務委員しかしていなかったのかなあ? 明治20年代前半の大日本教育会でも役員を歴任しており、私にとっても重要人物。それでも履歴がわからないのはツラいなぁ。『京橋区史』を見てみたいが、広島ではすぐ見ることができない。文部省や府県の官吏は、『職員録』を見ればだいたいわかるのだけど。
 収穫の少ない資料調査を終えると、すでに外は暗くなっている。頭痛と体の重さは相変わらず。もう帰ろう…
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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
木寺安敦 (渡邉修子)
2016-07-10 13:51:44
古いデシケータからクッション材代わりにされたクシャクシャの紙。
そこにその方の印と、林厚徳、渡邉洪基の名前ありました。
写メとり、東京大学総合研究博物館へ送りました。
写メ送りたいのですが。
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はじめまして (白石崇人)
2016-07-14 18:58:30
渡邉様、はじめまして。
10年前のつぶやきに反応していただき感謝します。気づくのが遅くなり失礼しました。
木寺の資料提供のお話ありがとうございます。私のメールアドレスは、 tshira☆h-bunkyo.ac.jp です。☆を@に直して送っていただければ幸いです。
木寺安敦は、京橋区の学務委員を務めていた方で、明治初め頃には巡査のようなこともされていたようです。おそらく地元の有力者だったのだろうと思われますが、公職に恒常的には就いていなかったらしく、謎の残る人物の一人です。情報提供ありがとうございます。
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木寺安敦 (小林麻衣)
2017-03-18 13:45:24
こんばんわ。
メールをさせていただきました
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はじめまして (白石崇人)
2017-03-18 15:10:00
小林様、はじめまして。
メールありがとうございます。のちほど返信します。
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Unknown (七志)
2022-02-24 01:34:53
谷中霊園の乙2号6側(米倉一平と書かれた大きな墓の横)に木寺安敦と前野琴子の夫婦の墓石があり、安敦は明治21年6月1日没とあります。琴子は明治19年4月8日没とあります。墓石にはこれ以上刻みがないため不明ですが、苗字的に平戸藩士か臼杵藩士ではないかと思います。
またこの2つ以外の墓石はないため、子孫は不明です。
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Unknown (白石崇人)
2022-02-25 23:34:51
七志さん
コメントありがとうございます。遅くなりました。
私の調べておりました木寺安敦は明治20年代半ば頃まで生きておりまして、もしかすると別人かもしれないとおもっております。これまでに情報提供くださった方によると、木寺安敦(きでら あんとん)という文政9年生まれの漢学者ではないかという情報と、木寺籌太郎という元幕臣で私立学校支援者ではないかという情報をいただいています。(小林さま、池本さま、その節はありがとうございました)
私自身がまったく調査に入れていないため、情報の整理が進んでおりません。同姓同名の可能性もありますが、木寺安敦という名前がそうそうあるとも思えないので、何かゆかりのあるお墓かもしれませんね。
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