私の教育上の信条は、「研究する教師を育てること」である。今の勤務大学の教育目標は、おおよそ「心を育てて人を育てる」、特に教員養成としては「専門的知識・技能を学ぶことを通して主体的・協働的な逞(たくま)しい実践力を育てる」というところにある。これら私自身の目指すものと職場の目指すものは重なっていると思う。
採用試験に合格して学校・園に所属しているだけの者でも「教員」と言えるだろうが、私が育てたいのは、そういう制度的事実としての「教員」ではない。その先、教員・教育者の理想像としての「教師」を育てたい。少なくとも「教師の雛または卵」を育てたいのである。そういう意味では、私は教員養成者ではなく、教師教育者を目指しているのだろう。教職課程担当教員としての教師教育者を目指している。教師を育てるには、まず「心」を育てる必要がある。教員には心の育ちは必須ではないかもしれないが、教師には必須である。採用試験に合格して学校に所属するだけなら心は育ってなくてもできるかもしれないが、人を導くに足る心は意識的に育てないと持てない。そういう意味では、今の勤務大学の創立者が残した「心を育て人を育てる」という言葉は、教師教育の立場から見ても卓見を示していると思う(創立者は優れた教師でもあった)。
心は学生のもともともっている心を土台にして育つので、その結果育つものは多様にならざるを得ない。また、子どもは多様だから、彼等を導く教師に必須の心は多様であるべきだ。つまり、我々が育てるべき心の内容は事実として多様であるし、多様であるべきである。多様な心をどのように育てるか。目指すものは多様なのだから、唯一の答えを教えるようとしてもダメだ。心は、健全に育つのを支え、導くことはできるし、そうでないと多様に育たない。心を健全に育て、導くにはどうすればよいか。その方法は、学生が自らの心を見つめ、考え、決めることだと思う。そうであれば、学生が自分の目指すべき教師像を見つめ、到達点や課題を考え、次の手立てを決める機会を積極的につくっていくことが、我々教師教育者としてすべき教育である。
また、教師を育てようとしても、学生が教員になれなければ十分ではない。その意味で「専門的知識・技能を学ぶ」、すなわち教職の教養や実用的知識・技能を学ぶ機会を十分設けなければならない。教職教養・知識・技能の学修は、それそのものの理解にとどまったらいけない。知っていることとできることは別物であり、知っていても実践で使えなければ意味がないからである。それらの学修が実践力につながることによって、教員養成・教職課程の中に位置づけられるのである。教えておけば勝手に学生が結びつけるだろうという考えは、教師教育者としては無責任である(研究者としてはそれでいいかもしれないが)。我々には、我々の教育を実践力育成の課程にあえて位置づけようとする姿勢が必要であると思う。そのほかに、実践力に直接つながりそうな実用的知識・技能については、多様な知識・技能を学び、かつそれぞれが何のための知識・技能か、どうしてそのような知識・技能なのかを学ぶ機会を欠かしてはならない。本当の実践力とは、ただできることではなく、今このときにふさわしい知識・技能を判断し、選ぶことのできる力である。実践において、判断・選択は教師が自分でするものだが、いつも独りでするものではない。自分勝手でもいけないし、他者の意見に流されてもいけない。他者(同僚や子ども・保護者・地域住民など)の意見を踏まえて、よりよい判断・選択につなげていく力が必要だ。ただし、そういう判断・選択には困難がつきものだ。困難を乗り越え、粘り強く、成功を積み上げ、失敗してもそれを生かして次を改良していく逞(たくま)しさも必要だ。そういう意味では、主体的・協働的で逞しい実践力を育てるという目標は、行き届いているものだと思う。
こういう実践力は、唯一の方法を教えたり、原理の学修と切り離したりすることでは育たない。とはいえ、無限に広がり深まっていくべき専門的知識・技能を学ぶには、限られた人材と時間では足りないし、それらを多様な学生が実践に結びつける思考過程も多様であるから、その行方を全てを予想してカリキュラム化するのは難しい。しかし、核となるべき知識・技能(これも複数あることが良いと思う)を見定めて学生にそれを学ばせ、さらにそれを超えて多様な学びをできる機会を設け、それを支援・指導することは可能である。これについては大学だからこそできると私は思っている。大学における教師教育・教員養成は、大学という制度の中で行うのであるから、心を育て、専門的知識・技能を学び、実践力を育てるには、学術を通して深く真理を探究して、新たな知見を創造することを通して行うべきものである。そのためには、講義だけではダメだし、話し合い(演習)だけでも、実習だけでもダメだ。講義・演習・実習・研究を適宜組み合わせて、実践力を主体的・協働的にたくましく学んでいくカリキュラムを組む必要がある。このうち、私は研究こそ大事だと思う。探究と創造は研究そのものだと思うからだ。研究とは主体的に進めるものだが、自然に始まるものではないし、自分でやれとただ言っただけでもできないものである。課題意識を育て、あり得るテーマや研究方法を学び、先行研究者の指導を受けながら少しずつ練習していかなければ、研究は始められない。大学では、講義・演習・実習と並行して研究を段階的に進めて(練習して)いく必要がある。今後は教育要領・指導要領通りに育っていれば自学習慣のついた学生はもっと増えるだろうから期待したいが、今は、学生に自学習慣のついた者はそれほど多くない(自分もそうだったから学生の気持ちはわかる)。しかしながら、人間の本質には、自分から学ぼう・問おうとする意識があると考えられるから(好奇心はその初期的感情)、どんな学生でも研究の面白さに触れられ、適切な支援・指導を得られれば自学習慣・研究習慣を身に付けることはできると思っている。ここで、研究の面白さに触れて興味を持たせ、研究技能を練習しながら学修し、徐々に主体的な研究に移行していくような教育課程が必要である。この課程は大学教育として教職課程との連絡を保ちながら行われる方がよいと思う。
教育現場には、研究する教師が必要だ。歴史的にも必要とされてきたし、教師が専門職であるためにも必要だし、現代においてはこれまで以上に必要となる。私は主体的・対話的で深い学びの最たるものが研究であると思っている。研究する教師は、主体的・対話的で深い学びの姿を経験的に知っている。その経験は子どもたちの指導において貴重な資源となるし、研究に取り組む生き方そのものが子どもたちの学び方の生きたモデルともなる。また、研究する教師は、自ら課題を問い、調べ考え、協力し、結論を導きながら課題を明らかにして、次の実践に向かう。実践的知識・技能の質向上を実質的に担い、専門職としての教師の中核となるべき人材である。なお、教師が研究し続け、学び続けるには、どうしても必要な条件が2つある。その一つは教師が余裕をもてる労働・待遇だが、もう一つは研究態度を育てることのできる大学教育である。この2つは、教職課程の改革だけでは十分整えられない。学校の働き方改革と、学問の自由と研究を忘れない大学改革とが必要だ。
私は以上のように考えながら、大学教員である教育学者として教師教育に取り組んでいる。険しい道のりなので正直くじけそうだが、取り組む意義は大きいと考えている。
採用試験に合格して学校・園に所属しているだけの者でも「教員」と言えるだろうが、私が育てたいのは、そういう制度的事実としての「教員」ではない。その先、教員・教育者の理想像としての「教師」を育てたい。少なくとも「教師の雛または卵」を育てたいのである。そういう意味では、私は教員養成者ではなく、教師教育者を目指しているのだろう。教職課程担当教員としての教師教育者を目指している。教師を育てるには、まず「心」を育てる必要がある。教員には心の育ちは必須ではないかもしれないが、教師には必須である。採用試験に合格して学校に所属するだけなら心は育ってなくてもできるかもしれないが、人を導くに足る心は意識的に育てないと持てない。そういう意味では、今の勤務大学の創立者が残した「心を育て人を育てる」という言葉は、教師教育の立場から見ても卓見を示していると思う(創立者は優れた教師でもあった)。
心は学生のもともともっている心を土台にして育つので、その結果育つものは多様にならざるを得ない。また、子どもは多様だから、彼等を導く教師に必須の心は多様であるべきだ。つまり、我々が育てるべき心の内容は事実として多様であるし、多様であるべきである。多様な心をどのように育てるか。目指すものは多様なのだから、唯一の答えを教えるようとしてもダメだ。心は、健全に育つのを支え、導くことはできるし、そうでないと多様に育たない。心を健全に育て、導くにはどうすればよいか。その方法は、学生が自らの心を見つめ、考え、決めることだと思う。そうであれば、学生が自分の目指すべき教師像を見つめ、到達点や課題を考え、次の手立てを決める機会を積極的につくっていくことが、我々教師教育者としてすべき教育である。
また、教師を育てようとしても、学生が教員になれなければ十分ではない。その意味で「専門的知識・技能を学ぶ」、すなわち教職の教養や実用的知識・技能を学ぶ機会を十分設けなければならない。教職教養・知識・技能の学修は、それそのものの理解にとどまったらいけない。知っていることとできることは別物であり、知っていても実践で使えなければ意味がないからである。それらの学修が実践力につながることによって、教員養成・教職課程の中に位置づけられるのである。教えておけば勝手に学生が結びつけるだろうという考えは、教師教育者としては無責任である(研究者としてはそれでいいかもしれないが)。我々には、我々の教育を実践力育成の課程にあえて位置づけようとする姿勢が必要であると思う。そのほかに、実践力に直接つながりそうな実用的知識・技能については、多様な知識・技能を学び、かつそれぞれが何のための知識・技能か、どうしてそのような知識・技能なのかを学ぶ機会を欠かしてはならない。本当の実践力とは、ただできることではなく、今このときにふさわしい知識・技能を判断し、選ぶことのできる力である。実践において、判断・選択は教師が自分でするものだが、いつも独りでするものではない。自分勝手でもいけないし、他者の意見に流されてもいけない。他者(同僚や子ども・保護者・地域住民など)の意見を踏まえて、よりよい判断・選択につなげていく力が必要だ。ただし、そういう判断・選択には困難がつきものだ。困難を乗り越え、粘り強く、成功を積み上げ、失敗してもそれを生かして次を改良していく逞(たくま)しさも必要だ。そういう意味では、主体的・協働的で逞しい実践力を育てるという目標は、行き届いているものだと思う。
こういう実践力は、唯一の方法を教えたり、原理の学修と切り離したりすることでは育たない。とはいえ、無限に広がり深まっていくべき専門的知識・技能を学ぶには、限られた人材と時間では足りないし、それらを多様な学生が実践に結びつける思考過程も多様であるから、その行方を全てを予想してカリキュラム化するのは難しい。しかし、核となるべき知識・技能(これも複数あることが良いと思う)を見定めて学生にそれを学ばせ、さらにそれを超えて多様な学びをできる機会を設け、それを支援・指導することは可能である。これについては大学だからこそできると私は思っている。大学における教師教育・教員養成は、大学という制度の中で行うのであるから、心を育て、専門的知識・技能を学び、実践力を育てるには、学術を通して深く真理を探究して、新たな知見を創造することを通して行うべきものである。そのためには、講義だけではダメだし、話し合い(演習)だけでも、実習だけでもダメだ。講義・演習・実習・研究を適宜組み合わせて、実践力を主体的・協働的にたくましく学んでいくカリキュラムを組む必要がある。このうち、私は研究こそ大事だと思う。探究と創造は研究そのものだと思うからだ。研究とは主体的に進めるものだが、自然に始まるものではないし、自分でやれとただ言っただけでもできないものである。課題意識を育て、あり得るテーマや研究方法を学び、先行研究者の指導を受けながら少しずつ練習していかなければ、研究は始められない。大学では、講義・演習・実習と並行して研究を段階的に進めて(練習して)いく必要がある。今後は教育要領・指導要領通りに育っていれば自学習慣のついた学生はもっと増えるだろうから期待したいが、今は、学生に自学習慣のついた者はそれほど多くない(自分もそうだったから学生の気持ちはわかる)。しかしながら、人間の本質には、自分から学ぼう・問おうとする意識があると考えられるから(好奇心はその初期的感情)、どんな学生でも研究の面白さに触れられ、適切な支援・指導を得られれば自学習慣・研究習慣を身に付けることはできると思っている。ここで、研究の面白さに触れて興味を持たせ、研究技能を練習しながら学修し、徐々に主体的な研究に移行していくような教育課程が必要である。この課程は大学教育として教職課程との連絡を保ちながら行われる方がよいと思う。
教育現場には、研究する教師が必要だ。歴史的にも必要とされてきたし、教師が専門職であるためにも必要だし、現代においてはこれまで以上に必要となる。私は主体的・対話的で深い学びの最たるものが研究であると思っている。研究する教師は、主体的・対話的で深い学びの姿を経験的に知っている。その経験は子どもたちの指導において貴重な資源となるし、研究に取り組む生き方そのものが子どもたちの学び方の生きたモデルともなる。また、研究する教師は、自ら課題を問い、調べ考え、協力し、結論を導きながら課題を明らかにして、次の実践に向かう。実践的知識・技能の質向上を実質的に担い、専門職としての教師の中核となるべき人材である。なお、教師が研究し続け、学び続けるには、どうしても必要な条件が2つある。その一つは教師が余裕をもてる労働・待遇だが、もう一つは研究態度を育てることのできる大学教育である。この2つは、教職課程の改革だけでは十分整えられない。学校の働き方改革と、学問の自由と研究を忘れない大学改革とが必要だ。
私は以上のように考えながら、大学教員である教育学者として教師教育に取り組んでいる。険しい道のりなので正直くじけそうだが、取り組む意義は大きいと考えている。
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