腰については、だいぶよくなったような気がします。微妙な違和感は続いておりますが…。
この連休は、慶事と法事を固められてしまい、松山に帰っておりました。11月は、仕事が固まっている上に、土日に開かれる教育情報回路研究会・中国四国教育学会大会など、用事が満載。学会では発表するので、その準備もしなくてはいけない。忙しいなぁ。また腰を痛めないように、油断しないようにしなくちゃいけません。
中国史国教育学会の発表題目は、「明治10年代後半の大日本教育会における教師像」です。題目には「教師像」とありますが、主に検討するのは小学校教員です。あえて「教師」としたのは、学校制度に縛られている「教員」という概念だけでは、理想的小学校教員のイメージ(像)は捉えられないと考えたからです。大日本教育会の論者は厳密に訓練された学者ではありませんので、必ずしも意識的に「教員」と「教師」(はたまた「教育者」「教育家」)とを区別しているとは限りません。また、そもそもイメージというのは漠然としたものであり、そういう漠然としたもののなかにも理想像は存在します。そのため、「教員」を含みつつ、「教育者」「教育家」などとも深く関わる大きなイメージを捉えるために、あえて「教師」という概念を使いました。
さて、明治10年代は、以下のような教員に関わる出来事が次々と起こりました。
教育令の公布・実施(明治12年~)
師範教育における教職教養・教科専門・実地経験の重視(明治12年~)
集会条例の公布・実施による教員の政論禁止(明治13年~)
小学校教員心得の公布・配布(明治14年~)
学校教員品行検定規則の公布・実施(明治14年~)
教員免許の法的整備・実施(明治14年~)
現職小学校教員講習の奨励(明治16年~) …など
以上のように、明治10年代には、教員資質の内容および形成・維持・向上に関わる施策が次々と繰り出されています。これらの施策は、明治19年制定の師範学校令や小学校教員免許規則などへ収斂していきます。明治10年代とは、教員資質が大きな問題となっていた時代でした。
明治10年代といっても、前半(明治10年~14年・15年)と後半(明治15年・16年~19年)では、教員たちの活動の方向性が違います。明治10年代前半において、当初、自由民権運動に深く関わっていた教員たちは、次第に教科教授・学校管理の改良運動へと目を向けていきます。あくまでも政治運動にこだわったり、国家的規準に充たない教員は教職を(自主的/強制的に)離れました。教職に残った教員は、師範学校などにおける再教育を受けたり、教育会や講習会を組織したりして教育普及・改良に尽力していきました。明治10年代後半には、恒常的団体としての教育会がほぼ全国で結成されます。教育会の結成により、機関誌や集会を通して、教員たちが教育普及・改良へと恒常的に集中する「場」ができました。そのような「場」において、教員とはどうあるべきか、という問題がどのように展開されていたのでしょうか。
とまあ、こんな感じの発表になればいいな、と目下準備中です。とりあえず『大日本教育会雑誌』の教員関係記事の整理は終わりました。教員史(観念・養成・研修・生活などの変遷)の勉強を並行して行いつつ、史料を読んでいかなければ。
…間に合うんかいな。
この連休は、慶事と法事を固められてしまい、松山に帰っておりました。11月は、仕事が固まっている上に、土日に開かれる教育情報回路研究会・中国四国教育学会大会など、用事が満載。学会では発表するので、その準備もしなくてはいけない。忙しいなぁ。また腰を痛めないように、油断しないようにしなくちゃいけません。
中国史国教育学会の発表題目は、「明治10年代後半の大日本教育会における教師像」です。題目には「教師像」とありますが、主に検討するのは小学校教員です。あえて「教師」としたのは、学校制度に縛られている「教員」という概念だけでは、理想的小学校教員のイメージ(像)は捉えられないと考えたからです。大日本教育会の論者は厳密に訓練された学者ではありませんので、必ずしも意識的に「教員」と「教師」(はたまた「教育者」「教育家」)とを区別しているとは限りません。また、そもそもイメージというのは漠然としたものであり、そういう漠然としたもののなかにも理想像は存在します。そのため、「教員」を含みつつ、「教育者」「教育家」などとも深く関わる大きなイメージを捉えるために、あえて「教師」という概念を使いました。
さて、明治10年代は、以下のような教員に関わる出来事が次々と起こりました。
教育令の公布・実施(明治12年~)
師範教育における教職教養・教科専門・実地経験の重視(明治12年~)
集会条例の公布・実施による教員の政論禁止(明治13年~)
小学校教員心得の公布・配布(明治14年~)
学校教員品行検定規則の公布・実施(明治14年~)
教員免許の法的整備・実施(明治14年~)
現職小学校教員講習の奨励(明治16年~) …など
以上のように、明治10年代には、教員資質の内容および形成・維持・向上に関わる施策が次々と繰り出されています。これらの施策は、明治19年制定の師範学校令や小学校教員免許規則などへ収斂していきます。明治10年代とは、教員資質が大きな問題となっていた時代でした。
明治10年代といっても、前半(明治10年~14年・15年)と後半(明治15年・16年~19年)では、教員たちの活動の方向性が違います。明治10年代前半において、当初、自由民権運動に深く関わっていた教員たちは、次第に教科教授・学校管理の改良運動へと目を向けていきます。あくまでも政治運動にこだわったり、国家的規準に充たない教員は教職を(自主的/強制的に)離れました。教職に残った教員は、師範学校などにおける再教育を受けたり、教育会や講習会を組織したりして教育普及・改良に尽力していきました。明治10年代後半には、恒常的団体としての教育会がほぼ全国で結成されます。教育会の結成により、機関誌や集会を通して、教員たちが教育普及・改良へと恒常的に集中する「場」ができました。そのような「場」において、教員とはどうあるべきか、という問題がどのように展開されていたのでしょうか。
とまあ、こんな感じの発表になればいいな、と目下準備中です。とりあえず『大日本教育会雑誌』の教員関係記事の整理は終わりました。教員史(観念・養成・研修・生活などの変遷)の勉強を並行して行いつつ、史料を読んでいかなければ。
…間に合うんかいな。
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