教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

明治大正期の帝大文学部教授集団

2005年12月20日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 今日も寝起き悪し。久しぶりに「起きたくなーい…」と思いました。でも、今日は特研(ゼミ)の日ですから、時間ギリギリですが無理矢理起床。
 特研は早めに終了。今日は19時から研究室の忘年会。なのに財布を家に忘れて来たので特研終了後すぐに取りに帰りました。昼食を食べていなかったので、ふたたび登校する際にファミリーマートでおでん(ダイコン、タマゴ、シラタキ、チクワ)を買って行きました。なぜファミマかというと、たまたま店の敷地に「おでん祭」と書いていたのに惹かれて。でも、安くもなんともなかった(泣)。十分味はしみていたのでよしとします。戻って、早い夕飯といってもいいぐらいの時間に遅すぎる昼食をとりました。理由は頭がボーっとして、次にとりかかろうと思っていた読書に集中できそうになかったから。
 今日は中山茂『歴史としての学問』の第四章「近代科学の成立と雑誌・学会」を読みました。全部で50頁ぐらい。あと数頁ぐらいで読み終わる頃に、忘年会の時間になってしまう。あぁ、早起きしないと一日の勉強が中途半端に終わってしまうなぁ。
 忘年会は近所の「コットンクラブ」というお店。大学のすぐ側にある店なので、研究室の飲み会などではよく利用されます。1,100円という安価で、それなりの2時間食べ放題のバイキングが食べられました。この店は数ヶ月単位ぐらいでサービスが変わっています。この値段で採算がとれるのでしょうか?

 あと、日をまたいで、橋本鉱市「わが国における『文学部』の機能と構造(1)-帝大文学部の教授集団の分析を中心として-」(『東京大学大学院教育学研究科紀要』第35巻、1995年、129~147頁)を読みました。東京・京都帝大文学部の教授集団の世代交代を実証することを通じて、明治期の帝大文学部教授集団の性格(エートスのいい訳語ありませんか?ここでは全部「性格」と訳してます←意味のごたごたしたカタカナ語嫌い)の変遷を明らかにしています。すなわち、儒教の素養からくる修養主義と、漢学(漢詩文等)の素養からくる「文人」的性格であるとか。また、第一世代(1857年以前出生者)、第二世代(1858年~1876年出生者)、第三世代(1877年以降出生者)は、それぞれ帝大教授として担っていた責任も期待も違い、そこに学問的性格の違いも表れているとされています。簡単に言うなら、儒学・漢学の碩学として旧態依然たる教育内容を教授すれば事足りた第一世代(それ以上の責任も期待もなかったとか)、旧教育の素養を受けつつ欧米の最先端の学問の日本への移植と文学部の制度化を担う責任を負った第二世代(ただし、後年儒教的なものに回帰していったとか)、旧世代の敷いたレールに沿った当該分野の深化・専門化という任務を担った第三世代、といったところだといいます。その学問的性格の喪失は、大正生まれの教授集団が生まれる戦後以降だろうとされています。
 この橋本氏の研究は私の研究とは直接関係しませんが、帝大における教育学は文学部内部に位置づけられるので、文学部全体の性格の勉強は非常に重要だと思います。今回の論文は、橋本氏の学問の制度化の研究や帝大学部に関する一連の研究のなかで、私としては一番面白かったというのが正直な感想です。集団における世代交代に関する分析方法の勉強にもなったし、何より旧教育の素養と帝国大学の学問との連続性がよく見えてきた点が一番興味深かったなあ。ちなみに題名には「(1)」とありますが、「(2)」と題した論文は見あたりません。時期的に、1996年に相次いで『教育社会学研究』と『大学史研究』に掲載された論文が、この続きのようです。これらの論文は12/6と12/9に読了済み(6日のは解説なし(笑))。
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