「なぜ教育史を学ぶか?」の最後です。
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3.専門職になるための教育観の問い直し
教師が教育の専門家として生きるならば、問題解決の過程で教育観・子ども観を問い直して根本的に考え直すことができるようにならなければならない。一般人と教師とを分ける根本的なものの一つは、自分の教育観・子ども観などの観念のレベルから問題を問い直す姿勢だと考える。このような姿勢は、生活の中で自然に出会う経験だけでは形成しにくい。教育史教育という特別な教育が必要である。
人は誰でも一定の教育観をもっている。人が教育する時、意識する・しないに関わらず、「教育とはこういうものだ」という自分なりの教育観に従っている。教育観は、教育実践のあり方や被教育者・同僚などとの関わり方を決めてしまう。教育観は、日々生活するなかで自然に形成されている。親からのしつけや、今まで出会ってきた教師の指導、同級生や先輩後輩との教え合いなどを通して、人々はそれぞれ教育観を形成しているのである。教育史教育の対象は、何の教育観も抱いていない無垢な人々ではない。そのため、教育史教育は、ゼロから学習者の教育観を形成する機会ではなく、すでにもっている教育観を問い直す機会にならなければならない。
2008年度に実施された調査によると、教職志望の学生たちは、教育思想史の授業を通して次のような効果を実感した。ある学生は、思考を「教育を受ける」側から「教育を行う」側に転換させた。別の学生は、教育思想・方法は歴史の中で作られてきたことを把握して、自分が当たり前だと思っていたことで成立していた教育観を相対化し、様々な立場から考える複眼的思考を可能にした。教師像を模索する境地に進めたり、自分の教育経験を掘り下げて省みたりして、教育観を広げたり深めたりできた学生たちもいた。教育史教育においては、学生自身が自分の教育観を意識化・主題化して、省察の出発点に位置づけることが重要である。
筆者が教育史教育を担当した学生の中にも、上記のような受講後感をもった学生がいた。具体的な理解を助けると思うので、以下に引用しておきたい。
[引用略]
上記のように、教育史教育は、教員志望者に対して教育観を問い直すきっかけを与える。そして、歴史的事実を通して教育の歴史性に気づき、現在の教育を相対的に見る視点を得て、歴史の流れから「教育とは何か」を客観的・日常的に考え続ける態度を形成することができる。
教師の役割を果たし、教師としてふるまう上でも、教師が教育観を問い直す姿勢は重要である。確かに、教育観を問い直す姿勢がなくとも教育することはできる。しかし、問い直しの姿勢がなければ、その教育が根本的に間違っていても修正することができない。「教育とは何か」を深く考えたことがない教師や、教えたことや教育のやり方が間違っていた時に直すことのできない教師に、誰も教わりたいとは思わない。教師が子どもに対して自らの責任を果たそう、子どもに対して誠実であろうとするならば、教育観を問い直す姿勢は重要である。
また、教師が社会に対して責任を果たし、誠実であるためにも、教育観を問い直す姿勢は重要である。社会が変化すれば教育に期待される役割も変化する。社会の変化や期待が自分の思いややってきた事と異なる時、教師は自分の教育観を問い直す必要に迫られる。あるいは、社会の期待そのものが不明確・不十分であったり、間違っていたりすることもある。その場合には、無批判や思考停止状態ではいられない。教師自身が社会に働きかけ、適正な手段を講じて修正を迫る必要があるかもしれない。社会の期待に応えるにしても、批判的に行動するにしても、教師に確固とした教育観がなければそれは不可能である。教育観を確立するには、自らの教育観を問い直し、改善・補強し、その根幹を発見・自覚しておく機会が必要である。教育史教育はその機会を提供することができる。
教育史教育は、学習者が自分の教育観を問い直す機会を提供しなければならない。だから、年号や人名、著者名、重要語句を覚えさせるだけでは不十分なのである。これらは、過去から考えるための索引のようなものであり、教育史教育の入り口や道具でしかない。従来、教育史教育では、「総花的通史」と呼ばれるような歴史的事実を年代順に並べるだけの概説的通史の講義が行われていた。特に、通史教育は、過去や外国の学校などをイメージできない想像力の未成熟や、史料の読解力不足などのような、現代日本の学生が陥りがちな実情と不適合を起こしやすい。もちろん、通史的な展望のない歴史はあり得ない。時代や事柄について歴史的文脈や相互連関のなかで捉えたり、人類の歩みの中に教育の歩みを位置づけて学んだりする上で、通史教育は必要である。そこで、教育史教育は、学生の関心や現在・将来の教育問題と結びつけて、取り扱う時代・地域・課題等を限定して教える「問題史的通史」の教育が必要である。年号や重要語句の紹介や通史教育によって教育史教育の入り口に立たせることに一応の教育的意義はある。しかし、入り口の先に何が見えるかまで示さなければ教育史教育にはならない。教育史教育は、史料や歴史叙述を教材にして、学習者を歴史的事実に出会わせ、自分の教育観を問い直すところに導く教育実践である。
また、教育史教育においては、母校史・自校史や地域の教育史を研究したり、その研究を支える技能として、史料の調査・分析方法を訓練したりすることの重要性も指摘されている。将来、教員が自校史や地域教育史の編纂に参加する可能性はある。自校史編纂は、地域に対する愛着や自校の教育実践を確認して、自己省察を進め、ひいては教育の本質や教職アイデンティティを確認する機会になる。このように、自校史編纂は教職生活の中で極めて重要な学びの機会である。その際、教育史教育の成果が生かされることになる。
以上の通り、教育史教育の意義から、なぜ教育史を学ぶかについて考えてきた。教育史は、教育に関する歴史的事実を年代順に記憶するために学ぶのではない。教育問題を物事の経緯から批判的に考察し、過去の成功例から学び、教訓を得るために学ぶ。また、過去の教育問題の歴史的文脈を明らかにし、現在・将来の教育に対する慎重・適切な思考と態度とを生み出して、将来の教育のあり方を考える態度の基盤を作るために学ぶ。そして、我々は教育問題を経緯から問い直す原理的・批判的思考力を育て、学校教育だけでなく生涯学習や子育て・進路選択など、広く国民生活を主体的に形成するための足がかりを作っていくことができる。また、教育史教育の成果は、教職生活全体を通して、子どもや地域、政策、教職生活などの問題に誠実に向き合うために重要な役割を果たす。教育観の問い直しや、教育改革・政策やカリキュラムの解釈、子ども・地域・教師間の対話、自校史・地域教育史の研究などにおいて、教育史教育の役割は大きい。このような教育史教育の意義を最大限に発揮するには、学習者の論理的思考と想像力、そして自らの教育観などを自覚し相対化する客観的視点が鍵となる。事実を憶えようとするよりも、現代と過去の教育問題にまたがる因果関係や、自分自身の教育観の構造について、想像力をしっかり働かせて論理的に考えることが重要である。
教師は、何をどのように教えるかという問題から逃れることはできない。この問題には、価値判断や規範の問題が含まれてくる。また、教職の専門性や独自性を主張すれば、それだけ自分たちの営みを反省することが必要になる。これらのことを考えるには、原理的・批判的思考力の高まりが必要である。教育について常に考え続け、教職の専門性を確立するためにも、ますます原理的・批判的思考力を育成するような教育史の学びは重要になる。
<参考文献一覧>
・小玉重夫『シティズンシップの教育思想』白澤社、2003年、25~26頁。
・白石崇人「教員養成における教育史教育」広島文教女子大学高等教育研究センター編『広島文教女子大学高等教育研究』第2号、2016年、29~48頁。
・TEES研究会編『「大学における教員養成」の歴史的研究―戦後「教育学部」史研究』学文社、2001年。
・橋本美保「教員養成における教育的思考」教育思想史学会編『近代教育フォーラム』第23号、2014年、131~132頁。
・林泰成・山名淳・下司晶・古屋恵太編『教員養成を哲学する』東信堂、2014年。
・山田昇『戦後日本教員養成史研究』風間書房、1993年。
・「シンポジウム:教員養成のための教育史教育の問題点」『日本の教育史学』第18集、教育史学会、1975年、123~139頁。
・「シンポジウム:私の教育史教育―教育内容の構成について」『日本の教育史学』第20集、教育史学会、1977年、130~146頁。
・「シンポジウム:教育史的認識をいかに形成するか」『日本の教育史学』第21集、教育史学会、1978年、91~114頁。
・「教育史教育と研究のあり方をめぐって」『日本の教育史学』第37集、教育史学会、1994年、226~240頁
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3.専門職になるための教育観の問い直し
教師が教育の専門家として生きるならば、問題解決の過程で教育観・子ども観を問い直して根本的に考え直すことができるようにならなければならない。一般人と教師とを分ける根本的なものの一つは、自分の教育観・子ども観などの観念のレベルから問題を問い直す姿勢だと考える。このような姿勢は、生活の中で自然に出会う経験だけでは形成しにくい。教育史教育という特別な教育が必要である。
人は誰でも一定の教育観をもっている。人が教育する時、意識する・しないに関わらず、「教育とはこういうものだ」という自分なりの教育観に従っている。教育観は、教育実践のあり方や被教育者・同僚などとの関わり方を決めてしまう。教育観は、日々生活するなかで自然に形成されている。親からのしつけや、今まで出会ってきた教師の指導、同級生や先輩後輩との教え合いなどを通して、人々はそれぞれ教育観を形成しているのである。教育史教育の対象は、何の教育観も抱いていない無垢な人々ではない。そのため、教育史教育は、ゼロから学習者の教育観を形成する機会ではなく、すでにもっている教育観を問い直す機会にならなければならない。
2008年度に実施された調査によると、教職志望の学生たちは、教育思想史の授業を通して次のような効果を実感した。ある学生は、思考を「教育を受ける」側から「教育を行う」側に転換させた。別の学生は、教育思想・方法は歴史の中で作られてきたことを把握して、自分が当たり前だと思っていたことで成立していた教育観を相対化し、様々な立場から考える複眼的思考を可能にした。教師像を模索する境地に進めたり、自分の教育経験を掘り下げて省みたりして、教育観を広げたり深めたりできた学生たちもいた。教育史教育においては、学生自身が自分の教育観を意識化・主題化して、省察の出発点に位置づけることが重要である。
筆者が教育史教育を担当した学生の中にも、上記のような受講後感をもった学生がいた。具体的な理解を助けると思うので、以下に引用しておきたい。
[引用略]
上記のように、教育史教育は、教員志望者に対して教育観を問い直すきっかけを与える。そして、歴史的事実を通して教育の歴史性に気づき、現在の教育を相対的に見る視点を得て、歴史の流れから「教育とは何か」を客観的・日常的に考え続ける態度を形成することができる。
教師の役割を果たし、教師としてふるまう上でも、教師が教育観を問い直す姿勢は重要である。確かに、教育観を問い直す姿勢がなくとも教育することはできる。しかし、問い直しの姿勢がなければ、その教育が根本的に間違っていても修正することができない。「教育とは何か」を深く考えたことがない教師や、教えたことや教育のやり方が間違っていた時に直すことのできない教師に、誰も教わりたいとは思わない。教師が子どもに対して自らの責任を果たそう、子どもに対して誠実であろうとするならば、教育観を問い直す姿勢は重要である。
また、教師が社会に対して責任を果たし、誠実であるためにも、教育観を問い直す姿勢は重要である。社会が変化すれば教育に期待される役割も変化する。社会の変化や期待が自分の思いややってきた事と異なる時、教師は自分の教育観を問い直す必要に迫られる。あるいは、社会の期待そのものが不明確・不十分であったり、間違っていたりすることもある。その場合には、無批判や思考停止状態ではいられない。教師自身が社会に働きかけ、適正な手段を講じて修正を迫る必要があるかもしれない。社会の期待に応えるにしても、批判的に行動するにしても、教師に確固とした教育観がなければそれは不可能である。教育観を確立するには、自らの教育観を問い直し、改善・補強し、その根幹を発見・自覚しておく機会が必要である。教育史教育はその機会を提供することができる。
教育史教育は、学習者が自分の教育観を問い直す機会を提供しなければならない。だから、年号や人名、著者名、重要語句を覚えさせるだけでは不十分なのである。これらは、過去から考えるための索引のようなものであり、教育史教育の入り口や道具でしかない。従来、教育史教育では、「総花的通史」と呼ばれるような歴史的事実を年代順に並べるだけの概説的通史の講義が行われていた。特に、通史教育は、過去や外国の学校などをイメージできない想像力の未成熟や、史料の読解力不足などのような、現代日本の学生が陥りがちな実情と不適合を起こしやすい。もちろん、通史的な展望のない歴史はあり得ない。時代や事柄について歴史的文脈や相互連関のなかで捉えたり、人類の歩みの中に教育の歩みを位置づけて学んだりする上で、通史教育は必要である。そこで、教育史教育は、学生の関心や現在・将来の教育問題と結びつけて、取り扱う時代・地域・課題等を限定して教える「問題史的通史」の教育が必要である。年号や重要語句の紹介や通史教育によって教育史教育の入り口に立たせることに一応の教育的意義はある。しかし、入り口の先に何が見えるかまで示さなければ教育史教育にはならない。教育史教育は、史料や歴史叙述を教材にして、学習者を歴史的事実に出会わせ、自分の教育観を問い直すところに導く教育実践である。
また、教育史教育においては、母校史・自校史や地域の教育史を研究したり、その研究を支える技能として、史料の調査・分析方法を訓練したりすることの重要性も指摘されている。将来、教員が自校史や地域教育史の編纂に参加する可能性はある。自校史編纂は、地域に対する愛着や自校の教育実践を確認して、自己省察を進め、ひいては教育の本質や教職アイデンティティを確認する機会になる。このように、自校史編纂は教職生活の中で極めて重要な学びの機会である。その際、教育史教育の成果が生かされることになる。
以上の通り、教育史教育の意義から、なぜ教育史を学ぶかについて考えてきた。教育史は、教育に関する歴史的事実を年代順に記憶するために学ぶのではない。教育問題を物事の経緯から批判的に考察し、過去の成功例から学び、教訓を得るために学ぶ。また、過去の教育問題の歴史的文脈を明らかにし、現在・将来の教育に対する慎重・適切な思考と態度とを生み出して、将来の教育のあり方を考える態度の基盤を作るために学ぶ。そして、我々は教育問題を経緯から問い直す原理的・批判的思考力を育て、学校教育だけでなく生涯学習や子育て・進路選択など、広く国民生活を主体的に形成するための足がかりを作っていくことができる。また、教育史教育の成果は、教職生活全体を通して、子どもや地域、政策、教職生活などの問題に誠実に向き合うために重要な役割を果たす。教育観の問い直しや、教育改革・政策やカリキュラムの解釈、子ども・地域・教師間の対話、自校史・地域教育史の研究などにおいて、教育史教育の役割は大きい。このような教育史教育の意義を最大限に発揮するには、学習者の論理的思考と想像力、そして自らの教育観などを自覚し相対化する客観的視点が鍵となる。事実を憶えようとするよりも、現代と過去の教育問題にまたがる因果関係や、自分自身の教育観の構造について、想像力をしっかり働かせて論理的に考えることが重要である。
教師は、何をどのように教えるかという問題から逃れることはできない。この問題には、価値判断や規範の問題が含まれてくる。また、教職の専門性や独自性を主張すれば、それだけ自分たちの営みを反省することが必要になる。これらのことを考えるには、原理的・批判的思考力の高まりが必要である。教育について常に考え続け、教職の専門性を確立するためにも、ますます原理的・批判的思考力を育成するような教育史の学びは重要になる。
<参考文献一覧>
・小玉重夫『シティズンシップの教育思想』白澤社、2003年、25~26頁。
・白石崇人「教員養成における教育史教育」広島文教女子大学高等教育研究センター編『広島文教女子大学高等教育研究』第2号、2016年、29~48頁。
・TEES研究会編『「大学における教員養成」の歴史的研究―戦後「教育学部」史研究』学文社、2001年。
・橋本美保「教員養成における教育的思考」教育思想史学会編『近代教育フォーラム』第23号、2014年、131~132頁。
・林泰成・山名淳・下司晶・古屋恵太編『教員養成を哲学する』東信堂、2014年。
・山田昇『戦後日本教員養成史研究』風間書房、1993年。
・「シンポジウム:教員養成のための教育史教育の問題点」『日本の教育史学』第18集、教育史学会、1975年、123~139頁。
・「シンポジウム:私の教育史教育―教育内容の構成について」『日本の教育史学』第20集、教育史学会、1977年、130~146頁。
・「シンポジウム:教育史的認識をいかに形成するか」『日本の教育史学』第21集、教育史学会、1978年、91~114頁。
・「教育史教育と研究のあり方をめぐって」『日本の教育史学』第37集、教育史学会、1994年、226~240頁
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