「なぜ教育史を学ぶか?」の続きです。
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2.教職生活に役立つ原理的・批判的思考力の育成
今、教育哲学会や教育史学会は、今日の実践的指導力重視の教員養成改革に対して、「原理的な考察の層を薄くしようとする傾向」を見ている。教育史教育の問題は、危機感をもって議論が進められているところである。教育現場では、新しい教育問題が次々に生じてくる。このような状況には、他の誰かから対処療法が提供されるのを待つ姿勢だけでは対応できない。教師には、事態の背景を深く分析・洞察する思考力や、未知の状態に臨機応変に対応する省察の力が必要である。教育史教育は、教育史の学習を通して、教育とは何かを問う原理的思考力や、問題背景を分析するための洞察・省察力を育てる。
2010年度に行われた調査によると、教師たちが教育哲学に期待するのは、教育全般に関する原理的な考え方や、人間の生き方、人生観・世界観、教育事象の分析などであった。教師は、時には、自明だと考えられていることを教育史から批判的に吟味して、現代の教育のあり方の根拠を見つけ、よりその理解を強化し、より実効的にするためにはどうするか考える必要がある。また、教師が子どもや自分・社会に誠実であろうとするならば、自分の狭い個人的な経験を乗り越えなければならない時がやってくる。その時、過去の教育者の思想や教訓などを用いれば、自分の教育観・子ども観を問い直し、鍛え上げることができる。
また、現在の教育現場では、すべてを文部科学省や教育委員会から指示されなければ動けない教師ではなく、自分たちなりに政策を解釈して組織的に取り組むことができる教師が求められている。組織的に政策内容やその背景、児童生徒やその集団の特徴、および学校の物的・人的条件などを解釈しようとする時、自説に閉じこもって独善に陥ってはならない。独善に陥らないためには、開かれた場で多くの人と思考・議論しながら、お互いに教育観や実践を磨いていくことが重要になる。このとき、教師たちは、生産的な懐疑・批判を進め、相手の主張に耳を傾け、相手の状況を暫定的に受け入れていかなければならない。それは同僚の間だけではなく、子ども・保護者・地域住民との間でも必要である。教師が独善に陥らないためには、自分たちが当たり前だと思ってやっていることは実は間違っているのではないかと見直すことはとても大事である。ただし、現場という「内部」にいる教員が、「内部」の問題を追究・批判することは容易ではない。それを可能にするには、「内部」に入り込む前の教員養成の段階で、社会構造・教育行政・教育実践を解釈・判断する上で働く「外部」の視点を、ある程度育てておく必要がある。教育史教育は、経験的事実や古典的テキストから出発して、教育現実の背後にある原理や価値を考察し、自分の理解範囲を超えた(「外部」の)視点を自分のものにして自己変容を促すような「難解さ」をもつ。むしろ、教育史教育は「難解」だからこそ、自ら考える教員の育成にとって不可欠であり、現在・将来役立つのである。安易に歴史的事実の暗記教育に流れてしまっては、このような教育史教育の本質に達することはできない。教育史教育は、教育改革・政策や、教師の教育的信念、カリキュラムなどの解釈や捉え直しを支える原理的・批判的思考力を育て、教職生活上の問題解決にかかわっていく必要がある。
【出典】
白石崇人『[再訂版]資料から考える教育史』広島文教女子大学、2018年、5~6頁。
※白石崇人『資料から考える教職原理』広島文教女子大学、2017年、41~42頁(第6章)も内容はほぼ同じ。誤字脱字を直した。
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2.教職生活に役立つ原理的・批判的思考力の育成
今、教育哲学会や教育史学会は、今日の実践的指導力重視の教員養成改革に対して、「原理的な考察の層を薄くしようとする傾向」を見ている。教育史教育の問題は、危機感をもって議論が進められているところである。教育現場では、新しい教育問題が次々に生じてくる。このような状況には、他の誰かから対処療法が提供されるのを待つ姿勢だけでは対応できない。教師には、事態の背景を深く分析・洞察する思考力や、未知の状態に臨機応変に対応する省察の力が必要である。教育史教育は、教育史の学習を通して、教育とは何かを問う原理的思考力や、問題背景を分析するための洞察・省察力を育てる。
2010年度に行われた調査によると、教師たちが教育哲学に期待するのは、教育全般に関する原理的な考え方や、人間の生き方、人生観・世界観、教育事象の分析などであった。教師は、時には、自明だと考えられていることを教育史から批判的に吟味して、現代の教育のあり方の根拠を見つけ、よりその理解を強化し、より実効的にするためにはどうするか考える必要がある。また、教師が子どもや自分・社会に誠実であろうとするならば、自分の狭い個人的な経験を乗り越えなければならない時がやってくる。その時、過去の教育者の思想や教訓などを用いれば、自分の教育観・子ども観を問い直し、鍛え上げることができる。
また、現在の教育現場では、すべてを文部科学省や教育委員会から指示されなければ動けない教師ではなく、自分たちなりに政策を解釈して組織的に取り組むことができる教師が求められている。組織的に政策内容やその背景、児童生徒やその集団の特徴、および学校の物的・人的条件などを解釈しようとする時、自説に閉じこもって独善に陥ってはならない。独善に陥らないためには、開かれた場で多くの人と思考・議論しながら、お互いに教育観や実践を磨いていくことが重要になる。このとき、教師たちは、生産的な懐疑・批判を進め、相手の主張に耳を傾け、相手の状況を暫定的に受け入れていかなければならない。それは同僚の間だけではなく、子ども・保護者・地域住民との間でも必要である。教師が独善に陥らないためには、自分たちが当たり前だと思ってやっていることは実は間違っているのではないかと見直すことはとても大事である。ただし、現場という「内部」にいる教員が、「内部」の問題を追究・批判することは容易ではない。それを可能にするには、「内部」に入り込む前の教員養成の段階で、社会構造・教育行政・教育実践を解釈・判断する上で働く「外部」の視点を、ある程度育てておく必要がある。教育史教育は、経験的事実や古典的テキストから出発して、教育現実の背後にある原理や価値を考察し、自分の理解範囲を超えた(「外部」の)視点を自分のものにして自己変容を促すような「難解さ」をもつ。むしろ、教育史教育は「難解」だからこそ、自ら考える教員の育成にとって不可欠であり、現在・将来役立つのである。安易に歴史的事実の暗記教育に流れてしまっては、このような教育史教育の本質に達することはできない。教育史教育は、教育改革・政策や、教師の教育的信念、カリキュラムなどの解釈や捉え直しを支える原理的・批判的思考力を育て、教職生活上の問題解決にかかわっていく必要がある。
【出典】
白石崇人『[再訂版]資料から考える教育史』広島文教女子大学、2018年、5~6頁。
※白石崇人『資料から考える教職原理』広島文教女子大学、2017年、41~42頁(第6章)も内容はほぼ同じ。誤字脱字を直した。
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