教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

備中の高地

2007年08月14日 23時55分55秒 | Weblog
 今日は午前中に松山へ帰るつもりが、成り行きで岡山の美星(びせい)町へ。美星町は緑がいっぱいのすばらしいところでした。その帰り、何やら観光モードになり、山中鹿之介の墓と備中松山城へ。
 山中鹿之介の墓は、高梁市落合町にあります。山中鹿之介(幸盛)は戦国時代末期の人で、出雲国(島根県)の尼子氏に仕えた武将です。尼子氏が滅亡していく中で、御家再興を願って「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に誓った逸話は有名です。鹿之介は講談の題材に取り上げられ、江戸時代を通じて悲劇の忠臣としての「山中鹿之助」像が形成されていきました。明治以降には、武士道を支柱とした国民教育の教材として見出され、教科書で取り上げられたということです。(Wikipedia参照)お墓は、墓石(鳥取の幸盛寺にもあるようですが)と1枚の説明の板があるだけでした。
 その後、備中松山城へ。松山へ帰らず備中松山城へ行くとは(笑)。備中松山城は、日本「最高」の城。天守閣の建ってるところが、最も高いということなんですけどね。駐車場に車を止めて、急斜面の山道を歩くこと25分。全力疾走したくらいに息切れ、汗だけでシャツがずぶ濡れに。単に年をとっただけではなく(笑)、まぢで半端ではない道のりでした。頂上に天守閣がありましたが、何かのレースのゴールに見えました。途中、「もう勘弁してくれ…」「まだ登るのか…」と何度も思いましたが、天守閣に到着した時には、運動後のすがすがしい気持ちになっていました(笑)。写真は、絶壁の上に建てられた石垣と白壁。天守閣の写真は公式サイトで見られますし、私としては、この城の一番おもしろいところは天守閣ではなく、このところだと感じたので。
 16時ごろ、岡山駅に戻り、電車に乗って松山へ。瀬戸大橋を渡る際、夕立が降った後に虹がかかっていました。斜め上から見る虹は初めてで、貴重な体験をしました。19時すぎ、ようやく松山に到着。親父とビールを酌み交わして寝ました。
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