教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教育史教育における講義(付・教育史的知識)

2021年10月13日 23時55分00秒 | 教育研究メモ
 かねてより私は、「教育学としての教育史」の隆盛と「教育史教育」の振興を主張してきました。私が教育史教育を大事にしたいのは、これが教師教育・教員養成および国民・市民育成、人間形成のために必要だと思っているからです。ただ、その教育は、権威的に体系化された教育史的事実・知識を一方的に伝達することをねらったものではありません。教育史教育が扱うべき教育史的事実・知識は、あくまで学生が教育について研究する(教育学する)ための材料です。大学は研究の場であり、大学教育は研究に資するためのものです。教師になる(である)ためには専門的に教育を研究する資質能力が必要であり、国民・市民になる(である)、または人間らしくあるためには、教育についてそれぞれの立場から研究する資質能力が必要です。そのため、大学における教育史教育は、教育を研究する材料とその機会を提供する必要があります。
 なお、私は講義という教育形態を否定しません。研究は、考えたり話し合ったりする機会を提供するだけでは成立しないからです。研究するためには、考えたり話し合ったりする材料、すなわち知識が必要です。知識を得るには、読書が有力な方法ですが、独りで読書を進めて独学することは容易ではなく、先行者の支援・指導が必要な場合が多いです。講義は、研究に必要な知識を得るために先行の研究者が支援・指導を提供する機会である必要があります。こういう意味での講義は一方的な知識伝達とは異なります。講義者が、学生の研究意欲・動向などを把握せず、研究を導くことなく自分勝手に進めて行くならば、それは「一斉」と否定されても仕方ないことでしょう。また、講義者が、教師・国民・市民・人間にとって必要な知識を特定せずに、例えば特定の学問において権威ある知識であるという理由だけで内容を選んだ場合、それは「画一」と否定されても仕方ないことです。講義は、講義であるだけで「一斉画一」なのではなく、学生の研究を意識せず、教師・国民・市民にとっての教養や必要を前提としないために「一斉画一」になるのです。
 教育は真空状態ではなく生きた人間の間で具体的な文脈に沿って生起します。専門の教育学者の場合はさておき、教師や国民・市民・人間が研究すべき教育は、人間的・文脈的・具体的な知識・事実に表れることになります。教師・国民・市民・人間が生きていく上で出会う教育の問題は、常に人間的で文脈的で具体的なものです。そのような教育問題を考えるためには、人間的で文脈的で具体的な教育について考える資質能力とその経験が必要です。教育史という知識・事実は必ず人間的・文脈的・具体的です。そのため、教育史の知識・事実は、ほかの知識と比べて、教師・国民・市民の教育内容としてよりふさわしいといえます。その意味で、教育史的知識は重要であり、教育史教育が必要です。
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