教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

近況報告のつもりが授業論にいたる

2009年05月10日 19時31分42秒 | 教育研究メモ
 一日の気力が続かず、なかなかブログ更新に至らぬ毎日を送っております。それでも恒常的に訪れてくださる50名~60名ほどの閲覧者に感謝。とりあえず近況報告です。
 かのゴールデンウィークは、研究と休養につぎ込みました。鳥取県の教育会雑誌(『因伯私立教育会雑誌』『因伯教育会報』『因伯教育会月報』および『山陰之教育』の途中、『東伯之教育』まで)、順調に収集しております。思っていた以上に大量にあるのと、収集に時間を使うので、実際に研究を始めるのはもう少し集めてからかな。そのほか、全体的に、研究そのものはそれほど進みませんでした。まだ構想段階にとどまってます。
 連休明けの2日間、何かと「濃い」内容満載でした。そのためか、この土日は若干ボーっとしています。ただ、めざましい進歩とはいかないまでも、少しずつ授業準備も研究活動も前へ進んではいますので、ひと安心。
 さて、来週からわが学科では、教育実習(附属幼稚園にて)が始まります。何が起こるやら。不安を感じます。ただ、学生たちがどう変わるか、何を得てくれるか、楽しみでもあります。
 そして、来週といえば、そろそろ高校訪問などの学生募集関係業務が始まりそうです。未体験の仕事なのでとても不安ですが、楽しみに思うようにしています(笑)。
 
 それにしても、気になるのは授業。それもまた、いつも通り。
 とても興味を持って、熱心に出席・発言・レポートしてくれる学生。はたまた、ついて来ているのか判別つきがたい学生。授業中・授業後の様子を見ていると、受講生の姿はさまざまです。
 今のところ私が受け持っているのは、講義科目がほとんどです。講義とは、知識伝達を主とする授業であると考えると、その形式は一斉授業の形式にならざるを得ないと考えます。ただ、学生全員に内容を理解させ、興味を持たせられる一斉授業というのは、理想ではあっても現実にはありえません(学生の理解形式・関心などはそれぞれ異なるため)。それでも教師は、内容を理解できる・興味を持つ学生が少しでも増えるように、毎回反省しつつ、微調整して工夫していかないといけません。論理的には矛盾しているように思えますが、実際として、工夫改善の手をとどめれば、教師の自己満足にしかなりません。
 とりあえず私は、毎回授業終了間際に小レポートを課しています(次の回の最初に批判・助言・激励を加えています)。その他、教材選択、目的・目標の調整、板書、口頭説明、視覚教材の試行錯誤などをしているだけで、目新しいことをしているわけではありません。なお小レポートは、授業内容を学生自身に振り返らせて、内容理解を深めさせようとするための教育の一部ですが、同時に私(授業者)にとっては、学生の理解度を確認して授業改善の材料としても位置づいています。
 うーん、一斉授業という授業形式を変えればよい、という単純な問題ではありませんので悩みます。そもそも「一斉授業ではない講義」とはありうるのか。「講義・演習・実習・実験」などという区分そのものも問題ではないか。さまざまな形式を取り入れて授業形式を複合化すべきか。どの形式を選ぶか。複合の割合はどうか。複合化すれば講義内容を削減しなければならないが、削減した内容はどうするのか、云々。
 ちょっと書くつもりが、こんなになってしまいました。まだまだ模索し続けなければならないようです。
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