忙しいです。今週から5月にかけての時期は、もっと忙しそうですよ。しかし、忙しいうちが華。成長する機会を与えられたと思ってがんばっていきます。
さて、石戸谷・門脇編『日本教員社会史研究』の続きです。
第4章の陣内靖彦「明治後期における師範教育の制度化と師範学校入学生の特質」は、明治後期における師範学校の変遷に注目することで、教員の地位低下の原因を究明しようとした論文です。明治後期において師範学校は、師範学校入学年齢の引き下げ(明治19年の17~19歳→明治40年の15歳以上(予備科は14歳以上))、学校の増設(明治19年の46校→大正初年の90校)、生徒数の増加(明治19年の約5,000人→明治末期の28,000人、女子生徒は男子生徒の約3倍の増加率)、短期課程の併設(簡易科・二部など)、小学校教育内容・方法へ適合的な方向への教育内容の画一化・定型化(同時に精緻化)といった変化を経て、国家統制を強化し、組織的整備を推進したとともに、その地位を低下させ(明治前期における府県の最高学府としての地位から職業訓練機関としての地位へ)、形式主義的な「“錬成”」の場となっていったとされています。このような師範学校は、短期的な経済の契機に進路選択を左右されるほど、浮動的かつ広範囲な青少年層から成る入学予備軍をかかえ、明治後期に入って急速に増加した未進学の高等小学校卒業生を吸収していきました。師範学校生徒は、明治30年代に士族から平民へ移行したとされていますが、陣内論文では中学校生徒と比較し、士族層が入学してこなくなったのではなく、もともと多数を占める平民層が中等教育の機会拡大の分だけ進出してきたのだと指摘しています。平民層が増加していった明治30年代後半以降の師範学校生徒は、中学校生徒と比べて農業出身者の占める割合が圧倒的に高く、中程度の自作農を中心に高額所得者から貧困層にまで幅広い農業出身者で構成されていました。東京府青山師範学校の入学者は、①高等小学校卒業後、私塾などで普通学の勉強をして入学した者、②高小卒業後、教育の実際に踏み込んだ経歴(師範学校や郡市立教育会などにおける講習の修了、准教員・代用教員の経験、検定による准教員免許状取得など)をもって入学した者、③他の中等教育機関の修学途中で入学した者で主に構成されており、とくに②の修学歴の者が目立っていたようです。彼らが師範学校入学を選んだのは、彼らが高小卒業まで成績優秀の土地の模範的少年であり、立身出世や自己向上を願いつつも、家郷との絆を断つほど「親不孝的」で「脱土着的メンタリティを持った」少年ではなかったためだといいます。彼らは、家業の手伝いや村役場で働きながら、向学心と教育の実際に踏み込む経歴を契機として、師範学校入学志望をつのらせていったということです。
第5章の寺昌男「明治後期の教員社会と教師論―沢柳政太郎と加藤末吉」は、明治20年代末以降のほぼ日清戦争後の時期を「明治後期」と設定し、「教師論」すなわち教師に対する社会的期待の倫理構造を、沢柳・加藤の教師論から探った論文です。明治後期の教員は、その社会的地位を相対的に低下させながらも、教職の専門性を制度上で確立しました(ただし、平民に対する士族の相対的後退による「士太夫ノ気概」の喚起基盤の喪失、教授の定型化の進行による教育実践の創造的余地の縮小を伴っています)。沢柳は、『教育者の精神』(明治28(1895)年)において、教職者集団の本質的精神(教育者の精神)を一人一人の教師の内面に求め、その精神および教師自身と社会的制度や世俗的規範とを混合せずに相対化しました。また、教職者の資格を、哲学や教育目的論などの「学識」と人物を養成するに足る「徳義」、そして教育への「誠実」「熱心」に求めました。沢柳は、『教師論』(明治38(1905)年)において、教師の生活を重視し、その学識を強調して「教育社会」に着目し、教師のあり方を教育実践の構造的把握(教師の「教授者」性への認識)の上に捉え、大量化した教職者集団の自己回復の道を認識しようとしています。沢柳『教師論』にみられるように、明治30年代の教師論には「教授者としての教師」観が現実(中等教育段階における学校紛争など)へ対応する重要な論点として挙げられました。東京高等師範学校付属小訓導であった加藤末吉は、『教壇上の教師』(明治41(1908)年)や『教師たらんとする人のために』(明治44(1911)年)などにおいて、大量化する教職者集団の共有すべき技術を問題とし、子どもに対する態度(「対他的態度」)にもとにある教師のしごとの専門性を追求しました。加藤は、教師-教材-子どもの三者交渉の場として授業を捉え、教材を生かし教科書を生かす「伝達」の仕事に教職の専門性を求め、それを「教順」(教授活動の形式・手順)と「教式」(教師-児童間の体裁、講演式・問答式・対話式など)を実行する際に教師が注意すべき「教様」という概念を用いて研究しようとしました。「教様」とは、教師に内在的な技術であり、主に言語・動作の技術として追求されたものです。明治30年代の教師論は、その論点を教職の倫理から教授の技術へ移行させ、教師の本質観を教育者から教師・教授者へ変化させていました。なお、寺氏は、本論文の結論から、この変化を明治30年代の小学校教職者集団の変貌と関連づけられるのではないか、沢柳・加藤の教師論を明治国家の要求した聖職教師論の一展開としてみなしてよいか、という仮説・問題を導いています。
陣内・寺両論文は、通説を問い直し、日本教員史像を従来以上にリアルに描き出した論文でした。陣内論文では、師範学校の出身族籍の傾向など、今まで資料分析を経て論じられなかった通説が強化されていきます。東京府青山師範学校予備科入学生の手記「我が経歴」を用いて、明治後期の師範学校生徒がどのような思いで入学したか分析した結果は、当時の師範学校入学生の姿をリアルに理解できる興味深いものでした。寺論文では、明治30年代の教師論を丁寧に分析し、「教授者としての教師」像を見出して、士族的教師像→師範タイプ(聖職的教師像)という明治教員史像を描き直す可能性をひらきました。両論文は、唐澤氏以来の日本教員史像を問い直すような、研究史上重要な論文だったのではないか、と感じています。
さて、石戸谷・門脇編『日本教員社会史研究』の続きです。
第4章の陣内靖彦「明治後期における師範教育の制度化と師範学校入学生の特質」は、明治後期における師範学校の変遷に注目することで、教員の地位低下の原因を究明しようとした論文です。明治後期において師範学校は、師範学校入学年齢の引き下げ(明治19年の17~19歳→明治40年の15歳以上(予備科は14歳以上))、学校の増設(明治19年の46校→大正初年の90校)、生徒数の増加(明治19年の約5,000人→明治末期の28,000人、女子生徒は男子生徒の約3倍の増加率)、短期課程の併設(簡易科・二部など)、小学校教育内容・方法へ適合的な方向への教育内容の画一化・定型化(同時に精緻化)といった変化を経て、国家統制を強化し、組織的整備を推進したとともに、その地位を低下させ(明治前期における府県の最高学府としての地位から職業訓練機関としての地位へ)、形式主義的な「“錬成”」の場となっていったとされています。このような師範学校は、短期的な経済の契機に進路選択を左右されるほど、浮動的かつ広範囲な青少年層から成る入学予備軍をかかえ、明治後期に入って急速に増加した未進学の高等小学校卒業生を吸収していきました。師範学校生徒は、明治30年代に士族から平民へ移行したとされていますが、陣内論文では中学校生徒と比較し、士族層が入学してこなくなったのではなく、もともと多数を占める平民層が中等教育の機会拡大の分だけ進出してきたのだと指摘しています。平民層が増加していった明治30年代後半以降の師範学校生徒は、中学校生徒と比べて農業出身者の占める割合が圧倒的に高く、中程度の自作農を中心に高額所得者から貧困層にまで幅広い農業出身者で構成されていました。東京府青山師範学校の入学者は、①高等小学校卒業後、私塾などで普通学の勉強をして入学した者、②高小卒業後、教育の実際に踏み込んだ経歴(師範学校や郡市立教育会などにおける講習の修了、准教員・代用教員の経験、検定による准教員免許状取得など)をもって入学した者、③他の中等教育機関の修学途中で入学した者で主に構成されており、とくに②の修学歴の者が目立っていたようです。彼らが師範学校入学を選んだのは、彼らが高小卒業まで成績優秀の土地の模範的少年であり、立身出世や自己向上を願いつつも、家郷との絆を断つほど「親不孝的」で「脱土着的メンタリティを持った」少年ではなかったためだといいます。彼らは、家業の手伝いや村役場で働きながら、向学心と教育の実際に踏み込む経歴を契機として、師範学校入学志望をつのらせていったということです。
第5章の寺昌男「明治後期の教員社会と教師論―沢柳政太郎と加藤末吉」は、明治20年代末以降のほぼ日清戦争後の時期を「明治後期」と設定し、「教師論」すなわち教師に対する社会的期待の倫理構造を、沢柳・加藤の教師論から探った論文です。明治後期の教員は、その社会的地位を相対的に低下させながらも、教職の専門性を制度上で確立しました(ただし、平民に対する士族の相対的後退による「士太夫ノ気概」の喚起基盤の喪失、教授の定型化の進行による教育実践の創造的余地の縮小を伴っています)。沢柳は、『教育者の精神』(明治28(1895)年)において、教職者集団の本質的精神(教育者の精神)を一人一人の教師の内面に求め、その精神および教師自身と社会的制度や世俗的規範とを混合せずに相対化しました。また、教職者の資格を、哲学や教育目的論などの「学識」と人物を養成するに足る「徳義」、そして教育への「誠実」「熱心」に求めました。沢柳は、『教師論』(明治38(1905)年)において、教師の生活を重視し、その学識を強調して「教育社会」に着目し、教師のあり方を教育実践の構造的把握(教師の「教授者」性への認識)の上に捉え、大量化した教職者集団の自己回復の道を認識しようとしています。沢柳『教師論』にみられるように、明治30年代の教師論には「教授者としての教師」観が現実(中等教育段階における学校紛争など)へ対応する重要な論点として挙げられました。東京高等師範学校付属小訓導であった加藤末吉は、『教壇上の教師』(明治41(1908)年)や『教師たらんとする人のために』(明治44(1911)年)などにおいて、大量化する教職者集団の共有すべき技術を問題とし、子どもに対する態度(「対他的態度」)にもとにある教師のしごとの専門性を追求しました。加藤は、教師-教材-子どもの三者交渉の場として授業を捉え、教材を生かし教科書を生かす「伝達」の仕事に教職の専門性を求め、それを「教順」(教授活動の形式・手順)と「教式」(教師-児童間の体裁、講演式・問答式・対話式など)を実行する際に教師が注意すべき「教様」という概念を用いて研究しようとしました。「教様」とは、教師に内在的な技術であり、主に言語・動作の技術として追求されたものです。明治30年代の教師論は、その論点を教職の倫理から教授の技術へ移行させ、教師の本質観を教育者から教師・教授者へ変化させていました。なお、寺氏は、本論文の結論から、この変化を明治30年代の小学校教職者集団の変貌と関連づけられるのではないか、沢柳・加藤の教師論を明治国家の要求した聖職教師論の一展開としてみなしてよいか、という仮説・問題を導いています。
陣内・寺両論文は、通説を問い直し、日本教員史像を従来以上にリアルに描き出した論文でした。陣内論文では、師範学校の出身族籍の傾向など、今まで資料分析を経て論じられなかった通説が強化されていきます。東京府青山師範学校予備科入学生の手記「我が経歴」を用いて、明治後期の師範学校生徒がどのような思いで入学したか分析した結果は、当時の師範学校入学生の姿をリアルに理解できる興味深いものでした。寺論文では、明治30年代の教師論を丁寧に分析し、「教授者としての教師」像を見出して、士族的教師像→師範タイプ(聖職的教師像)という明治教員史像を描き直す可能性をひらきました。両論文は、唐澤氏以来の日本教員史像を問い直すような、研究史上重要な論文だったのではないか、と感じています。
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