教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

5 明治中期における社会学の制度化(組織化)

2011年04月05日 23時55分55秒 | 日本教育学史

 本日、勤務校の入学式でした。担任の学生とも会いましたよ。焦らず観察しながら、じっくり関係をつくっていきましょう。

 さて、原稿公開の続きです。今回の稿はいまいちかもなぁ。

引用・参考文献の表記(例):
 白石崇人「5 明治中期における社会学の制度化(組織化)」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2011.4.5(2007.1.19稿)。
または、
 白石崇人「明治中期における教育学の制度化」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2011.3.30~4.8(2007.1.19稿)。


白石崇人「明治中期における教育学の制度化」(未公開稿)より

(3)明治中期における社会学の組織化
 従来、近代日本における社会学生成・形成の時期は、sociologyの訳語としての「社会学」という用法が普及し一般化していく時期を見据えて、明治10年代とされてきた。しかし、川合隆男によると、この時期区分は、近代日本社会学における欧米からの移植・輸入・受容の特徴が強調されすぎ、日本の在来・土着思想としての社会思想・科学思想・社会学思想生成の考察や研究が疎かにされるという問題があるという。川合は、この問題を受けて、近代日本における社会学の生成と制度化に注目し、大正13(1924)年の日本社会学会結成を画期として、近代日本における社会学の制度化過程を明らかにした。川合は、近代日本における社会学成立の画期を日本社会学会結成(大正13年)において、草創期(幕末~明治初年)、生成期(明治10~30年代)、形成期(明治40年代~大正7年)、成立・確立期(大正8年~昭和7年)に時期区分し、日本社会学史研究を進めた。川合の時期区分に従えば、本稿が問題とする明治中期は、社会学の生成期にあたる。
 川合は、学問運動・活動の組織化(organization)と制度化(institutionalization)を区別し、社会学の制度化過程を段階的に把握した。学問運動・活動の組織化とは、学問志向の人々が、現象の探究・解明と「現実」に対する直接・間接の学問関心・欲求を媒介にし、一定の人的ネットワーク、コミュニケーション・ネットワーク、集団・組織をつくり、成員相互および広く社会の中で交流を図りながら、学術的・専門的な学問活動を行うため、研究会・学会・大学などの集団・機関・団体などを結成設立する過程である。学問運動・活動の制度化とは、一定の資金源確保・情報交換・会合運営・機関雑誌刊行などの活動が、ある程度恒常的に、規則的・規範的に、正統的に継続され、人々の間で広く承認されながら展開していく過程である。この段階的把握をとったのは、組織化されても制度化されない場合や、制度化されても自立的に持続しない場合を想定したためである。
 社会学草創期における人間と社会との関係づけをめぐる社会思想・社会学思想は、国家社会有機体思想、個人主義的自然権思想、主観主義復古運動・日本主義、経験的社会論などのいくつもの可能性や組合せを内包した。社会学生成期とくに日清・日露戦間期には、産業政策の推進と国家主義・資本主義の発展が、人々の生活を大きく変え、貧富の差や階級分化を進め、様々な社会問題(生活・貧民・農業・鉱毒・内地雑居・教育・宗教・犯罪問題など)を深刻化させた。このような社会問題を解決しようとした動きは、新聞記者・文学者などによる実際の問題状況の観察、広義の社会運動としての社会改善・改良や変革志向、官僚・大学教員などによる社会政策論立場からの問題対応と方向付け、統計協会(明治13年結成)・国家学会(明治20年結成)などによる学問運動・活動としての問題の究明が、互いに交錯して展開されていった。
 そのような社会的激変の中、明治29(1896)年に社会学会と機関誌『社会雑誌』、明治31(1898)年に社会学研究会と機関誌『社会』が出現し、学問運動としての社会学が生成された。社会学会は、キリスト教系の社会事業・改良・運動者や官立大学・官庁の学者、労働問題・社会運動家などの多様な関心・思想傾向をもつ人々から成り、学会組織らしきものはなく、機関誌『社会雑誌』と月例会によって維持された学問運動の試みであった。ただ社会学会は、明治31年8月の『社会雑誌』第15号発行を最後に終わったらしい。社会学研究会は、明治31年11月に結成され、東京帝国大学系の研究者・学生を中心に、社会学原理・社会問題・社会改善策を研究することを目的とした。社会学研究会は、次第に社会主義運動や社会改良運動への関心を後退させ、学問講究中心の社会学の学問運動へと純化していった。社会学会から社会学研究会への以降は、草創期以来の民間の幅広い学問運動が、帝大系の研究者・学生中心の研究会組織へと再編成されたことを意味する。社会学研究会は、次第に研究会活動を停滞させ、明治36年4月の機関誌『社会学雑誌』第5巻3号発行を最後の活動とした。
 近代日本社会学史は、社会学研究会の活動停止によって一区切りをなし、東京帝国大学の社会学研究室創設を拠点とした、建部遯吾の国家有機体説中心の「建部社会学」の時代へと移行していく。その後、近代日本における社会学は、国家誘導的・他律的な専門家集団の形成・活動、および帝国大学を軸とした専門家集団の閉鎖的育成・養成の方向へ、制度化されていった。近代日本における社会学の制度化は、多元化・創造的動態化・複合融合化の方向ではなく、国家主義的な一元化・統制化、活動の硬直化、人々の生活からの分極化の方向へと進んだのである。その歴史の中において、明治中期という時期は、在来思想と新たな社会変動によって多様化した社会問題に対する関心・思想が、社会学会・社会学研究会の中で学問運動へと組織化されていく時期であったといえる。

 (以上、2007年1月19日稿)

<参考文献>
川合隆男『近代日本社会学の展開-学問運動としての社会学の制度化』恒星社厚生閣、2003年。

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