教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

机上の限界

2011年12月08日 23時52分20秒 | 教育研究メモ

 私は、毎日自分なりに保育者養成に励んでおります。他の先生方もそうだと思います。
 ただ、学者として育った私が、保育・教育現場に出てどうのこうのできるわけでもないので、「机上で出来ること」をひたすら追求する毎日です。

 本日、実習先からもらった書類を眺めていて、「机上の限界」を感じることができました。
 この1年くらいはその限界を超えるためにもがいていました。実習から帰ってきた学生から様々な話を聞いて、一喜一憂していました。しかし、今日、あることに気づきました。そして、少し考え方が変わりました。

 養成校ができることには限界があります。まさに「机上の限界」。
 我々も「実践的指導力」や「現場で役に立つ保育の計画力」が必要だと思いますし、それに向けてできることを日々努力しています。しかし、それらを一定の水準以上に育てるには、現場で何日も何週も何ヶ月もかけて働きながら身につけていくしかありません。
 戦前のように週20時間も実習に出て行かせることができれば、それも可能かもしれませんが、それはそれで、基礎的な理論・技術の学習や実践の理論的反省などをする時間がなくなってしまいます。養成校で基礎的な理論・技術の学習を十分できないとなれば、養成校が存在する必要はありません。
 長期的な基礎的理論・技術の学習やその研究は、保育者・教員の専門性を確立するために不可欠です。学者や養成校には、学者や養成校にしかできない役割があるのです。

 机上の限界、理論の限界を知ったということは、今後の私にとって、とても重要な体験になると思います。

 理論の限界を知っていれば、その可能性を過信しなくて済みます。
 実践家より、理論を深く理解している自分の方が正しい、などと勘違いをしなくて済みます。
 教育学者・養成校ができることについて、適切に把握し、適切に考えることができます。
 養成校で育てるべき力量と専門性を適切に把握し、学生を適切に教育することができます。

 意外なことかもしれませんが、現場は、学者や養成校にかなり大きな期待をしているように思います。「大学なんて」「理論なんて」という言説も聴かれますが、その裏側にも、あまりに大きな(過剰な)期待に大学や学者が応えられていないのだと思います。
 しかし、学者や養成校には限界があります。我々ができることは何なのか、できないことは何なのか。これを過信や勘違いなしに考えることができれば、我々は、すべきことを適切に把握し、我々の真の役割を果たすことができるのだと思います。

 私にできることには限界があります。自分で全部やろうなんて無理なことです。
 現場とともに協力し合って、よりよい保育者・教員を養成していくしかないのです。

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