教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

大和ミュージアム

2006年08月16日 23時55分55秒 | Weblog
 今日は松山→東広島。
 11:15の呉広島行きフェリーに乗って呉へ。松山から東広島に帰るには、松山観光港→呉港→JR呉駅→JR海田市駅→JR西条駅が最短。
 呉港下船後、港の隣にある大和ミュージアム(正式名称は、「呉市海事歴史科学館」)へ。展示物の数、質、見せ方いずれもすばらしい。機械技術の戦前から戦後への継承、というテーマも一貫して良い。2時間以上館内にいましたが、それでも全部見切れませんでした。同館でとくに思うところがあったのが、以下の3点。
 第1は、旧帝国海軍の技術力でした。館内に展示されていたのは、大和や回天などのできあがった全体としての兵器だけではなく、その全体を構築している部品もたくさん展示されていました。その精密さは、素人目でもすごいということぐらいはわかります。今まで小さな模型や本でしか知らなかった兵器が、これだけの技術力を駆使して作り上げられていたのだ、ということを知り、感動しました。これらの技術は、戦後、さまざまな機械技術に平和利用されていくのです。
 第2は、戦争の狭間に見える人間らしさでした。第二次大戦は組織戦ですから、兵士は人間らしさを捨てなくてはいけません。ですが、実際の兵士は死に直面したとき、極めて凝縮された人間らしさを発揮します。回天特別攻撃隊少尉の塚本太郎氏が出撃前に自分のハンカチに遺した遺言を見て、深く感じました。すなわち、「悠策 兄貴ガツイテヰルゾ 頑張レ 親孝行ヲタノム」。私にも弟想いの兄がいてくれています。他の人の遺言に比べ非常に短いものですが、自分と自分の兄に重なり、涙がとまりませんでした。
 第3は、完全に私事ですが、肝付兼行(きもつき かねゆき)という海軍軍人の功績と写真が展示されていたことです。肝付さんは、私の研究対象である大日本教育会・帝国教育会の幹部として、熱心に教育会の活動(すなわち「我邦教育ノ普及改良及ビ上進」)に参加していた人です。海軍軍人であることは知っていましたが、海軍軍人として何をした人かは知りませんでした。展示によると、呉に海軍の重要施設である鎮守府を設置する候補を決める際、呉湾の測量調査にあたり、「此呉湾ヲ除キテ他ニナシ」と報告した人物が、肝付さんだとのこと。呉に鎮守府を置いた立て役者の一人が、肝付兼行だったのです。思わぬ発見でした。
 大和ミュージアムは呉港の隣にあるので、私は帰省から帰るたびに近くを通って来ました。それでも今まで入ったことがなかったのは、その来館者の多さ。いずれ少なくなるさ、と思っていたのですが、一向に少なくならない。その理由はわかりませんが、今回巡ってみて、来館者はその展示の魅力にひきつけられているのではないか、という考えるようになりました。来館者が普通の博物館じゃありえないくらい多いのは、大和のエンターテイメント性だけに支えられてるのではないように思います。超おすすめ。
 写真は有名な10分の1戦艦「大和」を上から撮ったものです。
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14 コメント

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Unknown (白石崇人)
2010-01-30 17:56:17
 ひとまず私の考えを受け止めていただけたようで、ホッとしております。そして、お気遣いありがとうございます。
 戦後の利用が「平和利用」か、たしかに難しい問題です。私の中途半端な知識では答えられない問題ですので、控えますが、何をおっしゃりたいかはわかるような気がします。
 今後の「広島」、「呉」、そして「ヒロシマ」をどうするか。切実な問題ですね。
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Unknown (教育学徒)
2010-01-29 23:25:14
丁寧な補足説明をありがとうございます。
ブログ主様の実直なご性格と研究のスタンスが読み取れ、頼もしく、そして興味深く拝読しました。
同意しかねるところがありますが(そもそも「平和利用」といえるのか、とか)、ブログ主様に これ以上ご迷惑をおかけしてもなんなので、それはまたいつか。

別件で私から補足を。
「一向に少なくならない。その理由はわかりませんが」
これは呉市のみならず、たとえば広島市がこのミュージアムの宣伝に努めているからです。
広島市は修学旅行誘致のために原爆ドームとこのミュージアムのセット見学を推奨したりしているのです(批判的な視点無しに、です)。
それは広島市の自殺行為に等しい、と識者は批判していましたが。
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そうですね (白石崇人)
2010-01-29 18:39:26
 教育学徒さん、コメントありがとうございます。
 拙文の問題点をご指摘いただき、うれしく思います。記事を書いて3年前以上も経ったことに気づきました。この記事は、当時来館した時の感想を素朴に述べたものです。ご指摘の通り、この記事は「鵜呑み」かもしれません。ただ、当時を思い出す限り、もう少し言外の思いがあったと思いますので、補足説明させてください。
 たしかに、戦後に平和利用されたことによって、戦争利用の事実を覆い隠し、賛美して免罪するようなことになっては問題があります。ただ、戦争または軍備がきっかけになって、飛躍的に技術革新・産業発展が進んだ、という事実から目をそらしてはいけないと思います。それは、技術や産業というものが価値観や歴史から純化されたものではなく、非常に価値的で歴史的なものであるからです。われわれ日本人が、今後の技術開発のあり方を考えるためにも、戦前日本と戦後日本とを断絶してまったく別物として考えるような自己否定や自己欺瞞を、しっかりと見据えて生きていくためにも、必要な事実だと思っています。
 以上が、かつての素直な感動の先に考察するところです。いずれの展示にも特定の価値観は必ず含まれますが、読み取るのは来館者です。ただ、読み取る場合に、展示の趣旨を曲解しては有意義な理解はできません。この3年前の記事は、博物館の展示趣旨を「まずは」受け取ったことを表現したものとして考えていただければ幸いです。しかし、展示の趣旨をまずは受け止め、批判的に考察して自分なりの意見をまとめる。その後半部分の過程を省略していたことに気づかせていただきました。教育学徒さんに感謝します。

 それにしても、地域の教師たちも批判的に研究しているとは、とても心強い話を聞かせていただきました。よりよい博物館づくり(または博物館を利用した実践?)につながるといいですね!
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Unknown (教育学徒)
2010-01-28 20:40:10
「兵器が、これだけの技術力を駆使して作り上げられていたのだ、ということを知り、感動しました。これらの技術は、戦後、さまざまな機械技術に平和利用されていくのです」
というのを誇張するための博物館ですから、それを鵜呑みにして良いのでしょうか?

このミュージアムについては、地域の教師たちをはじめ、かなり批判的なまなざしで検討・研究されているのですが。。。
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情報提供ありがとうございます (白石崇人)
2009-08-11 18:24:34
柴崎先生、ご無沙汰しております。
藤井能三という人物の情報提供、ありがとうございます。地域の豪商が、学制期における小学校創立を全面的に推し進めたものとして、非常に貴重な情報をいただきました。藤井がなぜここまで教育に力を入れたのか、知りたい気がします。海運業に係わっていたようですが、この辺りにヒントがあるのかもしれませんね。
なお、教育会員ではないかとのことですが、私の方で調べたところ、大日本教育会または帝国教育会の会員としては記録が残っておりませんでした。ただ、富山県の有力者のようですから、富山県の県郡レベルの教育会に係わっていた可能性は十分にあります。富山県では教育会が実力を持っていた県ですので、調べてみると面白いかもしれません。
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高岡市の藤井能三 (柴崎力栄)
2009-08-10 21:06:24
白石さん、お久しぶりです。高岡(伏木港)には教育と築港の両方に関わった藤井能三(1846-1913)という人物がいることを知りました。URLの欄に彼について記述のある日本埋立浚渫協会の頁を記します。多分、教育会の方の会員でもあったのでしょう。
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さらなる (白石)
2008-10-31 08:16:42
反応遅くなりました。
さらなる情報提供ありがとうございます。
少しだけ資料を見ました。富山高岡の教育関係者(当然、地方自治体の長なども来場していたはず)を多分に意識した、ユニークな演説だなというのがと思います。浄土宗僧侶と同等の俸給・待遇を小学校教員に与えよという論調は、初めて見ました。また、日清戦後の国際状況から、知徳体育のほかに「胆育」(胆力をつける教育)というカテゴリーを設けているのも興味深いです。
明治30年といえば、小学校教員の待遇改善、および就学率の急上昇などを受けた小学校教育の改革が準備中だった時期です。肝付の演説は、非常に時事的内容に富んだものだったのではないでしょうか。普通の海軍軍人ができる演説ではないように思います。
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富山県高岡市、伏木築港 (柴崎力栄)
2008-10-25 20:35:40
京都大学の教育掛図に伏木もありました。国会図書館が所蔵し「近代デジタルライブラリー」で閲覧できる『肝付大佐の演説の要領』という小冊子(明治30年11月26日出版、非売品、富山県高岡市・高柳精一)の冒頭につぎのように出てきます。教育と築港の両方に一つの旅行で関わっています。「大佐は、先づ伏木築港期成同盟会の招請により、来越の途次、高岡私立教育会の需に応じ、築港と教育とを一括したる演説を試み尚ほ築港の設計に就ては、親しく同盟会員と熟談すべきを告げ、夫れより三時間余、満腔の熱誠を吐露し、聴者をして感奮措く能はざらしめたり。今左に其大要を録す」。読んでみて、海事思想涵養、通商と築港の部分は背景を含めて理解できますが、教育についての言説の位置づけは私には判らない...。
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肝付について (白石)
2008-10-23 12:54:31
 海軍の中身についてはまったく知らないので、有益な情報提供ありがとうございました。
 いずれ、肝付についてちゃんとまとめないといけませんね。
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沿岸測量という権威の源泉 (柴崎力栄)
2008-10-21 20:37:41
以前のご発言ですが、こちらへコメントします。「京都大学所蔵 近代教育掛図」というサイトのうち「地図」の項を見ると、海軍水路部の日本沿岸の水路図がいつ完成し、公開されたのかが窺い知れます。どこに軍港を置くのか、どこに商港を設けるのか。それを決める発言権をもっていたわけで、肝付の力の源泉は、この辺にあるのかと考える次第です。
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情報提供ありがとうございました (白石)
2007-04-20 12:31:32
 柴崎力栄さん、はじめまして。教育会に関係した軍関係者は、たいていは軍学校関係者でしたが、肝付だけは必ずしもそうでなかったので私の中では不思議な存在でした。肝付兼行について、貴重な情報提供ありがとうございました。
 私の方からも情報提供しますと、肝付は、明治21年~22年に大日本教育会議員、明治24年~27年に大日本教育会評議員、明治29年~大正11年まで帝国教育会評議員(明治33年~大正元年?まで評議員議長)を務めいます。辻新次会長の再選に尽力するなど、会における実質的な影響力を持っていたようです。また、大日本教育会・帝国教育会にて、軍艦や海事思想に関する演説をしばしばしています。
 柴崎さんの研究、たいへん興味深いです。今後ともぜひ勉強させていただきます。
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肝付兼行について (柴崎力栄)
2007-04-18 18:48:12
白石崇閃さん:

(1)徳富蘇峰研究をしていて、(2)水難救済会を研究していて、ともに、肝付兼行に出会いました。試しに、『明治の読売新聞 CD-ROM』を検索し、眺めているところです。

urlを張った私のブログで紹介した記事「マハン『海上権力史論』300部を、宮内省が買い上げ、全国の師範学校・中学校へ下賜」の内容を見ると、肝付は教育会にかかわることで、海軍にとって有能な広報担当者の役割を果たしていたように見えます。

海事思想を涵養することが、同時に、海軍への理解と支持を集めることになる明治時代に、とてもよく適合した活動スタイルです。

1890年後半から1891年前半に、肝付の講演や談話内容に変化がなかったかを、これから調べて見ようと思っています。肝付が、マハン著『海上権力史論』の原著に出会ったのはその時期だったはずです。

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いえいえ (白石)
2006-08-18 11:50:44
15日のコメントにコメントしましたよ~
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m(_ _)m (kissmint)
2006-08-17 17:35:43
 ごめんさない、ひとつ前のにコメントしてしまいました(TT)
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