去年の年始に、六百巻という長い長い経典である『大般若経』を読む気になったと書きました。
去年一年も多忙な年で、当然の職務としての大学での授業とその準備、研究所の講座での講義とその準備、お引き受けした講演、それらに関わって読んでおかなければならない文献、『サングラハ』誌や雑誌連載などどうしても書かなければならない原稿……を優先せざるを得ず、また読書体力も落ちてきているので、残念ながら思ったほどは読むことができませんでした。
内容的な意味があって国訳一切経版の第6巻から読み始め、ようやく読み終わって第1巻に取り掛かっているという現状です。
しかし、読めば読むほどすごいお経だと感じています。
「縮み志向の日本人」に比べると、古代のインド人はまるで「誇大妄想」ではないかと思うほどの大スケールでものを考えるのです。
ですから、六波羅蜜の「精進」についても、私たちの考えるような「精一杯・できるだけ」などというものではありません。
ごく一部を私の意訳でご紹介すると、こんな感じです。
もし菩薩・大士が一年かけて行なった事業を振り返って、とても長かったという想いになるようなら、まさに「怠慢な菩薩」と名づけられると知るべきである。
もし菩薩・大士が一年かけて行なった事業を振り返って、ほんの一日のちょっとした片付け仕事のように思うなら、まさに「精進の菩薩が精進波羅蜜多にしっかり踏みとどまっている」と名づけられると知るべきである。……
もし菩薩・大士が一カルパかけて行なった事業を振り返って、とても長かったという想いになるようなら、まさに「怠慢な菩薩」と名づけられると知るべきである。
もし菩薩・大士が一カルパかけて行なった事業を振り返って、ほんの一日のちょっとした片付け仕事のように思うなら、まさに「精進の菩薩が精進波羅蜜多にしっかり踏みとどまっている」と名づけられると知るべきである。
……もし菩薩・大士がカルパ数を考えて限界を設けるようなら、精進し勇猛果敢に覚りの行を修行し、この上なく等しいもののない覚りを求め覚ったとしても、まさに「怠慢な菩薩」と名づけられると知るべきである。
もし菩薩・大士が次のような考えをしたとしよう。たとえ数限りない大カルパを経ても精進し、勇猛果敢に覚りの行を修行して、必ずこの上なく等しいもののない覚りを覚ろう。私は、この上なく等しいもののない覚りを追究する上で、決して心に厭きや嫌気や挫折感を起こしたりはしない、と。〔このような菩薩・大士こそ〕まさに、「精進の菩薩が精進波羅蜜多にしっかり踏みとどまっている。精進波羅蜜多を修行して速やかに完成し、生死輪廻を超越してただちに一切の智慧を得る智慧を覚り得て、もろもろの心ある生き物(有情)のために大いなる益をなす」と名づけられると知るべきである。
これは、ほんの一部にすぎません。こうした文章が表現や比喩を変えて実に長々と綴られているのです。まさに、取りようによっては「誇大妄想」の不可能な理想です。
しかし、そうした経文を読んで、「こんなのは誇大妄想だ、キレイごとだ」、「とても私などには無理だ」という反応をするか、「及ばずながら、そうありたい」という反応をするかは、読む人しだいだと思うのです。
私は、これまでにも書いたとおり、MUST化しないかたちで、「及ばずながら、できるだけ、そうあれるといいなあ、そうありたいなあ」という気持ちで、また許されるならばもう一年精進したいと願っています。
年頭の所感というほどのものではありませんが、そういうわけなので、本年もよろしくおつきあいのほどお願い申し上げます。
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私のブログ記事、少しはご参考になったでしょうか。
四聖に出会えること、祈っています。
六道輪廻 人は さ迷いながら 時どき いろんな意味の喜びと出会い 生きるのだろうか?宗教研究会(名前検討中
旧年中も本年もご苦労さまです。
古代インド大乗仏教はほとんど誇大妄想に近い理想を掲げていて、驚異ですね。
しかし日本の、つつしみ深い、ささやかな、質素なものへの好みもいいですね。
どちらをも含んで超えたいものです。
今年も精進しましょう!
たいへんご多忙とのこと、ごくろうさまです。
インド人が思った菩薩の願というのは、ほんとうに誇大・広大、というか限界がないのですね。すごいです。
日本人の「縮み志向」というのは本当にそうですね。古代インド人とはほとんど真逆。でもそんな日本が好きになってきました。
講座楽しみにしております。
本年もどうぞよろしくお願いします!