白樺小舎便り(しらかばごやだより)

北信濃の田舎暮らしの日々

人の密かな思想の一端が垣間見える日

2016年05月03日 20時16分49秒 | 日記

憲法記念日。

この日、僕は『そーだったのか、この人はそんな風にかんがえていたのか!』というようなブログにいくつか出あった。

普段は、何の違和感もなく、むしろ親近感すら抱いていたブロガーが、この憲法記念日に際して、憲法に対する考え方を吐露している。

それは、僕をひどくがっかりさせるものだった。この人は、根底にそういう感じ方や、考え方を持っていたのか。

もちろん、考え方は色々あっていい。だけど、それに対する好き嫌いだってこちらの側にはある。

いうまでもなく、僕はこの国の憲法をアメリカから押し付けられたものだとは思っていないし、変えなければいけないものだとも思っていない。

『僕らは憲法を守る 憲法は僕らを守る』 そう思っている。

人類が到達した、現時点での最高の法的、文化的到達点だと思っている。

憲法は市民の立場を、権力から守るためのものだ。権力がそれを振りかざすものではない。

市民という言葉にも文句をつけていた人もいた。日本国憲法は国民のもので、市民すなわち外国人も含む日本の住人のためのものではないという。

市民とは、政治的な権利を有する、権力と対岸にいる市井の人々という意味だというくらいは僕にだって分かる。いわく市民革命、市民運動。そこに国籍があるというだけの国民という言葉では言い表せないから市民、国民の運動で憲法を守ると言う。当然のことだ。

中国の、北朝鮮や韓国の、最近の日本への対し方を持って、中国や朝鮮半島への過去の日本のかかわり方を正当化する人もいる。日本軍が中国人虐殺を行ったというのは嘘で、反対に、中国人が日本人を虐殺したのだとさえ言う。

何ということだ、普通に暮らし、僕が親近感さえ抱くブログを書いていた人たちが、そんな考え方を持っていたなんて。

もちろん、人それぞれ、考え方は自由だ。

ただ、それも真実から外れない限りにおいてだ。白を黒というのとは違う。

アジアで、2千万人、日本で三百万人以上、殺し殺されたあの戦争は、『日本が作ったあの明治憲法のもとで』行われたものだ。

憲法が国民を縛っていた。

だが、今は、少なくとも憲法が権力を縛っている。

これを変えたくてしようがないのが、安倍改憲の本質ではないか。

そんなことに手を貸してはいけない。

今日は憲法記念日。

 

 


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