白樺小舎便り(しらかばごやだより)

北信濃の田舎暮らしの日々

旅立ち 日光街道2日目

2024年05月26日 20時38分00秒 | 日記
宿泊したホテル朋泉草加は大きな看板もなく、派手なところのない自分たちにはとても好ましいホテルだった。
ロビーで無料のコーヒーを頂き、ほっと一息ついた。
無料のバナナも置かれていた。
基本的にはビジネスホテルだが、男性用の風呂場があった。5人も入ればいっぱいだが、ユニットバスが苦手の自分にはありがたい。朝食付き、ツィンベッドの部屋で5,550円。とてもリーズナブル。
朝食がとても素晴らしかった。
作りたての暖かい丁寧に作られた和食。
このほかにも別に好きなものを持ってこられる料理も用意されている。
観光ホテルのバイキングに比べればこんなにうれしいことはない。
ホテルの中にある居酒屋ならぬ居食屋で、夕食もここで食べられるらしい。
古の旅人もこのような和食に舌鼓を打ったのであろう。
この旅に先立って、宿泊処を色々調べた。
街道筋で、値段が手ごろで、駅に近く、ツインベッドか和室でという条件のあったのがこのホテル。
気に入ったので日光街道の拠点にしようと決めた。
幸いこの街道筋は東武鉄道がほぼ並行して走っている。
1泊または2泊しながら日光に向けて歩を進めていこうと考えている。

電車で北千住まで戻り、旧街道筋に戻る。


鴎外が住んだ町やね。










荒川。

富士山。

スカイツリー。結構歩いたつもりなのにすぐ近くに見える。



耳の病に効能あらたかと言われる石地蔵。
細君が熱心に祈っていた。

鷲神社。
罰当たりなことに、神社仏閣にそれほど興味がないので由緒は忘れたが、とりあえず参拝した。


ここはまだ江戸。足立区は長い。
梅島駅近くの商店街。よそよそしくない人々の暮らしが身近に感じられた。

ようよう江戸脱出。

武州。草加市。
草加と言えば、草加せんべい。もう一つ思い出すのは草加次郎事件。あれはもう何年前になるのだろうか。もう知っている人は多分少数派。

本日も10キロ少し歩いたところで終了。まだ昼前だが帰らねばならない。
草加市の最初の駅、谷塚でアイスコーヒーとケーキパンで一休み。

ここからが大変だった。
高崎までの経路と時間、乗り継ぎを調べ、真剣勝負のような緊張の中、知らない駅でカツカツの時間で数回乗り継ぎ午後3時過ぎ、無事高崎駅にたどり着いた。
ほとんど電車など乗らない田舎者の爺さん婆さんにとって、都会の駅は戦場。
持って1年だが、こんな時はスマホがなければどうにもならない。ありがたい文明の利器なのであった。
旅の恥は掻き捨てという言葉があるが、反省点も多々ある旅であったが、今後に生かせる。

車で伊勢崎まで行けば東武鉄道で草加まで行ける。どちらかと言えば裏街道だが、自分らの旅に合っている。
もう次の旅に思いを馳せている。

旅した日:5月14日

旅立ち  奥の細道へ

2024年05月25日 07時44分24秒 | 日記
日本橋の地に立つのは何度目だろう。
江戸の旧街道の起点。
我家は信州。日本橋まで行くのが一苦労。
今回はマイカーで高崎。そこから電車で東京駅まで行き、徒歩で日本橋を選択。
新幹線は貧民にはつらいし、そもそもこの旅にふさわしくない。トコトコ電車は軽井沢~横川間で分断されてしまった。
24時間400円の駐車場も見つかったし、湘南新宿ラインを使えば安く行ける。

生憎の小雨模様だが、江戸時代の旅人も雨の日だってあったし、これも風情。

川のある風景。良きかな。

浅草橋の先のお茶屋さんで休憩。

これぞ浅草。

これも浅草。
インバウンドとか言うらしい。よくわからんけど。
自分たちが、よその国に来たようだ。

スカイツリーとか言うらしい。ワタシャ、東京タワーの方が好き。


北千住の街。

芭蕉の像。

同じものでもワタシャこちらの方が好き。

奥の細道ということは分かる。
行頭は何と読むのだろう?

街道筋で地元の人と思われるご婦人に北千住駅の場所を訊いた。
私もちょうどそこへ行くところ、一緒に行きましょうと言う。
気さくな人で、いろいろな話をしてくれる。流石下町。
高齢だが現役のバスガイドだという。
ある時体が勝手に右のほうに曲がっていってしまうので医者に行くと脳血栓だと言われ即手術。
白内障と緑内障の手術もしたという。
人手が足りなくて今も仕事を頼まれるのだとか。
そんな話をしているうちに北千住駅に到着。
昔は1日に30キロ以上歩いたが、細君が変形性膝関節症を患い無理は禁物。11キロ位で本日は終了。
太くても細君とはこれ以下に?(ちなみにウチは本当に細君で、体重が増えないのが悩み)
『そんなことばかり言っているからアンタは嫌われるのよ』
『確かに。でもこの性格はこの年ではもう治りません』(以上心の声)

電車で草加に行き、近くのホテル朋泉泊。

夕食は大戸屋。

旅した日:5月13日
(続く)


旅立ち

2024年05月24日 18時22分39秒 | 日記
『月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。
舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老を迎ふる者は、日々旅にして、旅をすみかとす。
古人も多く旅に死せるあり。
予も、いづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮れ、春立てる霞の空に、白川の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、もも引の破をつづり、笠の緒付けかへて、三里に灸据うるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、』
奥の細道の冒頭、『旅立ち』の一節。
思い起こせば軽井沢追分から出雲崎までの北国街道を歩き、その後五街道の街道歩きを始めた。
中山道を京都三条大橋まで完歩した感動は忘れられない。
東海道は箱根越えと鈴鹿峠越えが思い出に残る。
甲州街道は笹子峠と小仏峠、共に街中ほどの大きな変化がなく、江戸の時代もこんな道であったろうという気分を味わうことが出来た。
街中の旧宿場町も好きだが、やはり峠道が好きだ。
コロナ禍を挟んで長い中断があった。
昨年の12月、完歩した。
五街道のうち三街道は歩き終えた。
もう残された時間はそう多くない。
やり残したということがないよう、やりたいことは躊躇しないで実行しよう。
奥の細道は宇都宮から奥州街道に変わる。そこまでは日光街道だ。
日本橋から奥の細道を歩いて行けば日光街道と奥州街道を歩くことになる。
こうして旅立った。(続く)