白樺小舎便り(しらかばごやだより)

北信濃の田舎暮らしの日々

カチューシャマラソン 

2016年05月15日 22時15分17秒 | 日記

中山晋平の故郷、中野市でカチューシャマラソンが行われた。

朝から晴天で、気温はぐんぐん上がった。

僕はハーフマラソンにエントリー。

カミさんと息子は5キロ。

開会式で、スキーの荻原健次氏が招待選手として紹介された。

出場者は、確か1,024名。

9時25分にハーフマラソンはスタート。

インフルエンザの影響で、この一月ほど、ほとんどトレーニングができていない身、2時間30分の制限時間内に完走、が一応の目標となった。

1キロ6分を少し切る程度のスピードで、走り続ける。中には、かなりの年配者もいて、明らかに70代後半以上と思われる細身のおばあさんが、スタタタと足取りも軽く追い抜いて行った。

まいったなあ。

所々に給水所があった。テレビで見るマラソンランナーの真似をしてカップを取ってみたいが、こぼれてしまいそうで、立ち止まって飲み干す。

いつの間にか、同じペースのランナーたちが周りを走っている。

軽々と走っている人もいれば、ドタドタと走っている人もいる。それが同じペースだというのがとてもおかしい。

自分は、どんな姿で走っているのだろう。無駄に力んでいないだろうか。美しく走っているだろうか。

早さより、そちらを優先する。

折り返し地点が次第に近づいてくる。向こうから、ゲストランナーの荻原健次氏が走ってくる。すれ違いざまハイタッチ。

折り返しは約10.5キロの地点。

この春先、千曲川の堤防でランニングしていたのは12キロ。2月に走った諏訪湖一周は16キロ。

次第に、あまり走っていない領域に入っていく。

往路は緩やかな下りだったので、袋は上り坂。歩き始める人も出てくる。

だが、僕はもともと山登りの人なので、ほとんどスピードを落とさずに登っていける。

それにしても暑い。

残り5キロ、残り3キロ、という看板が出てきて、自分の残りのエネルギーとスピードを調整する。

まだまだいける。

少しスピードアップして、ゴール地点を目指す。

グランドを半周してゴールイン。

胸のゼッケンに付けられたチップが即座に時間と順位をはじき出す。

結果は、2時間2分0秒。

あと少しで2時間を切れたのに残念。

順位は60代男子の部、63人中26位。

カミさんと息子も無事完走した。

これまで、マラソン大会に出ることなどあまり考えなかったが、走ってみると、色々な走りをする人がいて、いい刺激になった。

大きな大会は敬遠して、地方の小さな大会で走るのは自分に合っていると思う。

大事なことは、楽しみながら走る事。


命の不思議

2016年05月11日 22時09分44秒 | 日記

あれはもう20年近く前のことだ。

とある林檎畑の林檎の木の根本から、一本の小さな苗木が出ていた。

それを採ってきて、庭の片隅に植えておいた。とても無知だったので、大きくなればいつか林檎が成るかもしれないと思っていた。

林檎の木は背丈ほどに伸びた。でも花は咲かない。

調べてみると、林檎の木は全て接ぎ木で、台木には花も咲かないし、実も成らないという衝撃的な事実が明らかになったのは去年のことだ。

この冬、真っ白に積もった雪の上に、剪定の終わった枝が、無造作に投げ捨てられていた。

知り合いの林檎畑だったので、それを拾って持ち帰った。

ナイロン袋に入れて保存しておいた枝を、3月中旬に台木に接ぎ木した。

もちろんそんな経験はないし、農家ではないので、詳しい管理方法も良くはわからない。

ネットで調べて、自分なりに肝となるところを理解して、有り合わせの材料で間に合わせた。

4月になり、梅が咲き、桜が咲いた。

林檎の芽は接いだ時のまま、大きくならなかった。

周りの林檎畑を見ると、既に芽は大きく膨らみ、やがて葉が出てきていた。

台木の方は、芽が膨らみ、葉が出ていた。接いだ枝は、待てど暮らせどそのままだった。

これは、失敗したのかなと本気で思った。

接いだ箇所に巻いたテープは役目を果たしているはずだ。他に考えられる原因とすれば、剪定して捨ててあった枝が、古くてダメだったのだろうか。

それとも、接いだ枝にナイロン袋をかぶせて置かなかったので、枝の先端から水分が蒸発して枯れてしまったのだろうか。

今年の枝は取り払って、また、来年再挑戦しよう。何度もそう思った。それでも、万一ということもある。もう少し様子を見よう。辛抱、辛抱。

そんな風にして、数日様子を見なかった。

雨が上がった今朝、庭の巡回をしていて、驚いた。

なんと、接いだ林檎の枝から、葉が出ていたのだ。芽が膨らみ始めた枝もある。

枯れたような枝だが、命がそこに宿っていたのだ。

 

 

枝の芽が、大きくなって、花が咲き、やがて林檎の実をつける。そんなことを夢想しながら、この枯れたような枝の、どこにこんな命が宿っていたのだろうと不思議に思う。

枝についだ、枝接ぎという方法なので、来年は違う品種を、別の枝に接ぐ事ができる。ちなみに、今年接いだのはフジという品種だ。

ホームセンターで林檎の苗木を買ってくれば、千円以下で買える。

それでは、面白くない。第一、20年近くも育ててきた台木に申し訳が立たない。

挿し木は何度も成功させてきたが、接ぎ木は初めての経験で、毎日毎日見守ってきた。それが、こんな感動をもたらせてくれた。

広い庭ではないので、大きく育てることはできないが、盆栽仕立てで、林檎のをが眺められれば良しとしよう。

 

 

 

雨上がり、山の植物も活き活きとしていた。


へそまがり

2016年05月09日 22時13分59秒 | 日記

『あけない夜はない。やまない雨はない。』

『されど、暮れない昼はない。晴ればかり続かない。いつか雨は降る』

カミさんは僕の、このフレーズを聞いて言う。

『そんなこと言うのは、へそが曲がっている!』

そうだ、自分でもそれは認める。

夜はいつかあける。明るい太陽が昇ってくる。希望に満ちた一日が始まる。

雨が上がり、虹が橋を架ける。若葉が露を載せてきらきら光る。涼しい風が渡っていく。

そうありたいものだ。素直にそれを信じられたら、どんなにいいだろう。

ところが、明るい太陽も西に大きく傾いて、どんどん光が弱まっていく。やがて夜が来る。

晴れ渡っていた空が、いつか低く雲が流れ、やがて大粒の雨を落とし始める。

いいこともあれば、悪いこともある。

禍福はあざなえる縄の如し。ところが、中には直線編みのように同じ面のみがずっと続いている縄もある。他人には福ばかり、自分には禍ばかり。

へそも曲がろうというものだ。

 

さて、繰り言はこれくらいにして、今日、やっとナスとピーマンの類を植え付けた。

他の地域の人たちは、もう花が咲いたとか、収穫だとか書いているが、この地では、今やっと始まったばかり。

 

先日蒔いておいた枝豆も芽を出し始めていた。

 

人間が小賢しいことを、ああだ、こうだと言っている間に、植物たちは確実に育っている。

 

 

庭では、モッコウバラが咲き誇っている。

季節が駆け足で進んでいるんだなあ。

 

先月の半ば、インフルエンザらしきものに罹り、それからなかなか走れなかった。

久々に、千曲川の堤防へランニングに行った。

ちょっと早く走ると呼吸が乱れ、手と足と呼吸と、リズムがバラバラで、フォームもひどいことになっており、、、、、

今度の日曜日、ハーフマラソンにエントリーしている身には、これは、とても困った状態で、まあ、何とか制限時間内完走が現実的な目標かな。

多分、2時間半くらいあったような気がする。

本日の走行距離、8.2キロ。5月の走行距離39.8キロ。

 

 

 

 


ネットから怪物が現れる

2016年05月08日 20時37分26秒 | 日記

熊本地震は人工地震だった。

ネットにはそんな情報が氾濫している。

いわく、アメリカが起こした。いわく、パナマ文書から人々の目をそらすため。いわく、ユダヤの陰謀。いわく、宇宙人の仕業。いわく、プラズマ爆弾。等々。

東日本大震災も人工地震だと主張する。

それがどんなに荒唐無稽なものか、論ずるまでもないと、僕は感じる。

実にオカルト的で、非科学的なもので、議論する必要さえ無いと思っている。

ところが、驚いたことに、そうした情報に無批判に飛びついて、それを拡散している輩がいる。

最初は面白半分に流した情報かもしれない。

ところが、次第に独り歩きして、ネットの中で怪物に育ってしまう。

地震だけに限らず、今は、そういう時代なのだ。

科学離れが進んだ時代の申し子たちがネット社会の中に溢れている。

何が科学的なものの見方なのかわかっていない。

自分の頭で考えることをしない。

ネットのバーチャルな世界と現実の世界とを区別することができない。

このネットの世界は、右翼的な思想も蔓延させる。

憲法に関しても、事実と逆のことを描き出す。

それが独り歩きし、ウィルスのように爆発的に広がっていく。

こうして、ネットは醜悪な怪物を作り出す。

恐ろしい社会になったものだ。

魔女裁判を生み出した中世に戻っていくような、歴史が逆行していく感じを受ける。

僕も、利用してはいるが、決して利用されてしまわないようにしようと、いつでも身構えている。

 

 


人の密かな思想の一端が垣間見える日

2016年05月03日 20時16分49秒 | 日記

憲法記念日。

この日、僕は『そーだったのか、この人はそんな風にかんがえていたのか!』というようなブログにいくつか出あった。

普段は、何の違和感もなく、むしろ親近感すら抱いていたブロガーが、この憲法記念日に際して、憲法に対する考え方を吐露している。

それは、僕をひどくがっかりさせるものだった。この人は、根底にそういう感じ方や、考え方を持っていたのか。

もちろん、考え方は色々あっていい。だけど、それに対する好き嫌いだってこちらの側にはある。

いうまでもなく、僕はこの国の憲法をアメリカから押し付けられたものだとは思っていないし、変えなければいけないものだとも思っていない。

『僕らは憲法を守る 憲法は僕らを守る』 そう思っている。

人類が到達した、現時点での最高の法的、文化的到達点だと思っている。

憲法は市民の立場を、権力から守るためのものだ。権力がそれを振りかざすものではない。

市民という言葉にも文句をつけていた人もいた。日本国憲法は国民のもので、市民すなわち外国人も含む日本の住人のためのものではないという。

市民とは、政治的な権利を有する、権力と対岸にいる市井の人々という意味だというくらいは僕にだって分かる。いわく市民革命、市民運動。そこに国籍があるというだけの国民という言葉では言い表せないから市民、国民の運動で憲法を守ると言う。当然のことだ。

中国の、北朝鮮や韓国の、最近の日本への対し方を持って、中国や朝鮮半島への過去の日本のかかわり方を正当化する人もいる。日本軍が中国人虐殺を行ったというのは嘘で、反対に、中国人が日本人を虐殺したのだとさえ言う。

何ということだ、普通に暮らし、僕が親近感さえ抱くブログを書いていた人たちが、そんな考え方を持っていたなんて。

もちろん、人それぞれ、考え方は自由だ。

ただ、それも真実から外れない限りにおいてだ。白を黒というのとは違う。

アジアで、2千万人、日本で三百万人以上、殺し殺されたあの戦争は、『日本が作ったあの明治憲法のもとで』行われたものだ。

憲法が国民を縛っていた。

だが、今は、少なくとも憲法が権力を縛っている。

これを変えたくてしようがないのが、安倍改憲の本質ではないか。

そんなことに手を貸してはいけない。

今日は憲法記念日。