白樺小舎便り(しらかばごやだより)

北信濃の田舎暮らしの日々

列車に揺られながら 景色などあまり見ていなかった 

2017年03月16日 21時06分40秒 | 日記

青春18切符の残りの一枚。

出来るだけ有効に使おうと、飯山線経由で新潟市までの旅を計画した。

朝まだ暗いうちに始発列車に乗り、出発。

あえて列車と言い、電車と言わないのは、この路線を走るのはディーゼル機関車だからだ。

列車と言うのも気が引ける2両編成。

ビールとつまみを持って乗車したが、そんな朝早くから飲んでなんていられない。

飯山市に入ると、一面の雪景色。

我が家の周りはほとんど融けているから、わずか30キロほど北に寄っただけでこんなにもにも違うとびっくり。

 

千曲川に沿って列車は北上。

 

 

JR日本最高積雪地点。7.85メートル。

ここはまだ信州だ。

 

 

飯山線の終点は越後川口駅。

去年、ここまで旅をして、しあわせの33番観音巡りをした。

あれは4月の上旬。もうカタクリの花がたくさん咲いていた。

今年は雪が多い。多分。

この駅で長岡行の乗り換え、それから新潟行に乗る。

時間も時間なので学生や社会人の乗客があふれる。

ビールなんか飲んでいられない。

 

実は、窓の外の風景を眺めるふりをしながら、頭の中は他のことでいっぱいだった。

前の日、かみさんが勤める保育園の主任に呼ばれた。

この先生は長男の担任だった先生で、来年度から新しくなる保育園で園長になる。

もうずいぶん長い付き合いだ。

用件は、新しい保育園に鶏小屋を作って欲しいということ。

もちろん建築が本業ではない。

だが、できないとむげに断ることもできない。

どんな構造にすればいいのだろう。

どうすれば、安く仕上げられるだろう。

そんなことが頭を占領していた。

明日からは水道メーターの検針の仕事も待っている。

 

新潟市。

僕は古町通を目指した。

アーケードの繁華街。歩行者専用道路。

長野市にも権藤という繁華街があるが、ほとんどシャッター通りと化している。

東海道歩きで三重で感じた寂れた感じはあまりなく、たくさんの店と客で賑わっていた。

 

 

鈴木鮮魚店の海鮮丼定食。

旨い。

 

 

お土産にぎんだらの浜焼きを買う。

 

 

あとの予定は萬代橋を渡って朱鷺メッセに行き、最上階の展望台から佐渡を見ること。

 

萬代橋は上を渡っているときは何ということもない普通の橋。

だが、少し離れて振り返ると、実に見事な橋桁。

 

 

 

朱鷺メッセの最上階は無料の展望台になっている。

軽食喫茶も併設されている。

ここから、信濃川が海と出会うのを見た。僕はこの川の上流に住んでいる。

 

 

小樽運河のような(見たことないけど)、しゃれた建物。

 

 

新潟市の活気が感じられる。

 

 

 

小雨交じりの曇り空だったが、佐渡の島影が見えた。

意外と近い。

僕が何度も見たのは出雲岬からだった。とても遠くにかすんで見えた。

北國街道の到着地点で、感慨深く眺めたのは何年前だったのだろう。

あれから中山道を歩き、東海道も大詰めに来ている。

終わったら何をやろうとは今は考えるまい。

とりあえず、なすべきことは山ほどある。

 

今回の旅は長かった冬への決別。

鳥小屋作り、メーター検針、そして雪の融けた畑では農作業が待っている。

良い旅だった。

 


旅への思い止みがたく

2017年03月14日 17時05分09秒 | 日記

今は埼玉に住む古い山の友達から便りが届く。

彼女は『奄美大島200キロを歩いて来ました』と書く。

『三浦半島100キロを歩いた』と書いてきたこともある。

初めての登山に白馬岳から白馬槍温泉コースに案内し、すっかり病みつきになった。

上高地から西穂高、奥穂、北穂、槍、のコースを案内したのはもう三十数年前のことだ。

今も元気に歩き、登っているのはうれしい限り。

かつての山の仲間たちはもうほとんど登っていない。

こちらも負けてはいられない。

春になれば、信州百名山への挑戦や南アルプス南部の縦走が待っている。

その前に、東海道歩きで使った青春18切符の残りが1枚残っている。

それにしても、どうしてローカルの鈍行列車はこんなにも旅心をくすぐるのだろう。

今ではJRの路線が民営化され、18切符で乗り継げる範囲がずいぶん狭くなってしまった。

僕は新幹線になんて乗らない。多分特急にも乗らない。

考えた末、飯山線経由で新潟市まで行くことにした。明日旅立つ。

上今井駅5時40分発、新潟駅11時27分着。

帰路は16時09分発、20時55分着。

新潟市で4時間以上滞在時間が取れる。

おいしそうな海鮮の定食屋も見つけた。

日本海側で一番高い120メートル以上ある展望台も見つけた。晴れていれば佐渡も見えるという。

明日は生憎雪の予報も出ているが、ほとんどは列車の中。風情があっていい。

飯山線は残雪の風景を堪能できるだろう。

今回は本などもっていかず、ただただ窓外の風景を眺めていよう。

冬から春へ。こういう季節の変わり目が好きだ。

僕が堤防道路を走っている千曲川は、新潟に入って信濃川と名を変え、新潟市から海に流れ込む。

この川に沿っての旅はどんな感慨を僕にもたらすのだろうか。

世の中は新幹線、そしてリニアへと移り変わっていこうとしている。

偏屈な僕は、世の中の流れに逆らいたくなる。どうしても鈍行の旅なのである。

さあ、出かけよう、簡単なおつまみとビールなど用意して。

 

 


地にはばっけと福寿草 空にはオスプレイ

2017年03月13日 21時51分21秒 | 日記

まだ庭に雪が少し残っている。

それでも雪が融けた場所の落ち葉をかき分けてみると、そこに待ち望んだフキノトウが何とも言えない柔らかい黄緑色を見せてくれた。この地ではこれを『ふきったま』と呼ぶ。

秋田ではばっけというらしい。この呼び方が気に入って、ばっけと言ってみる。

 

福寿草も今日初めて花を開いた。

 

近年にない大雪で、春が遅れていた。

次第に日差しが強くなって、昨年は2月から走れた千曲川の堤防道路もやっと雪が融けて走れるようになった。

北信五岳と呼ばれる、斑尾、妙高、黒姫、戸隠、飯綱の山々も、緩んだ空気の向こうにどこかのどかに佇んでいる。

昨日片道2.7キロのコースを走ってみた。

5月21日に行われるカチューシャマラソンのハーフにエントリーしたので、走り込みたい。

そう思って走ってみたが、太ももの後ろやふくらはぎが痺れて走れなくなる。

この症状は数年前からあって、時にはウォーキングでも起きた。

腰痛があるので、多分腰から来ているのだろう。

1キロ位ごとに立ち止まり、休んだりさすったりしながらなんとか往復5.4キロを走った。

走っているときだけの速度は1キロ5分41秒。

男子マラソンの1キロ3分とは比べようもない。まあ仕方ないか、65の爺さんだもの。

 

で、本日も懲りずに小布施橋の横の堤防道路へ出かけた。

さて、走りだそうとしたら、すごい爆音が聞こえた。

空を見ると、なんと今話題のオスプレイが、すぐ頭の上(上空100メートルくらいだろうか)を3機が通り過ぎて行った。

敵機襲来。これはカメラに収めなければと、車に戻りカメラを構えた時にはかなり向こうに行っていた。

 

沖縄だけの問題じゃない。

群馬と新潟に訓練基地があり、この地はその中間にあたる。

この空を飛んで行き来する。

アメリカ本国では危険すぎて住宅地上空は決して飛ばないというのに。

県への事前通告はなかったという。

こんな風にしてそのうちにみんな慣れてしまうのだろうか。

馴らすことが目的で日本各地の上空を飛んでいるのか。

こんな一見平和そのものの信州の片田舎にも、きな臭いものがいつの間にか忍び込んでくる。

 

気を取り直して、走り出す。

また脚が痺れてこないだろうか。

そんな不安を抱えたまま、往復5.4キロのコースを3往復した。合計16.2キロ。

速さは1キロ5分40秒程度。最後の1往復はクールダウンも兼ねて1キロ6分20秒程度の速さ。

幸い脚は痺れてこなかった。

こんなに速度に拘ってはいけないと解ってはいる。

だが、ランニングウォッチをしているとついつい目が行ってしまう。

本来は山登りのトレーニングのために走っている。

速くなくても、走り続けられる体を作ることが目的だ。

で、これならどこまでも走り続けられるという速度は残念ながら1キロ6分30秒程度ではなかろうか。現在のところ。

昨年のハーフマラソンは2時間2分台。

今年は2時間を切りたいという気持ちも湧き上がってくる。

そうするとどうしても速度やタイムが気になる。

だが、今はまだそんな段階ではない。

ゆっくり長く走り込むこと。それを肝に銘じよう。

昨年の12月、トレイルランニングで80キロほど走って以降、ロングランニングからは遠ざかっている。

そんなことを思いながら堤防のランニングを終えた。

 

 

 


トットちゃん広場 電車の学校で

2017年03月11日 22時37分47秒 | 日記

 

あれから6年。

犠牲者の冥福を祈り、いまだに避難生活を余儀なくされている方々の難儀を思いながら、春の安曇野に。

この時期、後立山連峰の山々が神々しい。

我が家からも見えるが、数十キロ先で雪形も肉眼では見えない。

それと、途中で小川村の縄文おやきを食べることも目的の一つ。

 

 

最近では、蒸してつくるおやきが多いが、このおやき村のおやきは囲炉裏で焼いている。

今日の具材はおからと野沢菜。

僕はこのおやき村に住民登録をしている。

今では、郷土食のおやきも全国区になった。

僕らが外に出たころ、県外ナンバーの車がぞくぞくと山の上のおやき村に登ってきた。

 

目指す先は安曇野ちひろ美術館。

最近この美術館の庭にトットちゃん広場が出来た。

『窓ぎわのトットちゃん』の黒柳徹子さんの、電車の教室も再現されていた。

 

 

普通の小学校を数ヶ月で退学になったトットちゃんを受け入れてくれたトモエ学園の電車の教室。

 

 

真ん中の机に、写真でははっきり分らないが、黒柳徹子の名前が記された作文が乗っていた。

この学校は、自分の好きな学科から勉強を始めてもよいので、机によっては理科の実験道具だったり、絵具だったり、いろいろな教科のものが乗っている。

トモエ学園の小林宗作先生の口癖は『みんな一緒』『みんな同じ』。

障害者(嫌な言葉だ)をいたわりましょうではなく。

ヘイトスピーチの人たちに聞かせてあげたい。

今話題の森友学園の対極がここにある。

こんなところで学べたら、僕ももう少しましな人間になれたのかな。

2両ある電車のもう一つは図書館。

 

 

良質の童話がたくさん並んでいた。

窓の外には広大な芝生の庭と後立山連峰の山々。手前の少し標高の低い山々が見えた。

 

 

 

 

 

トットちゃん広場でゆっくりした後、美術館の中へ。

ここは何度も来ているので一回りした後カフェで一休み。

 

この美術館のいいところは、ところどころにベンチや椅子がありお昼寝も許されること。

徹子さんの動画が流れるコーナーの椅子の上でいつの間にかぐっすり眠っていた。

肩の力が抜け、目を覚ますと自分が少し洗い流された気がした。

ここに来ると、いつもそんな気分になる。

 

ついでに安曇野特産のワサビ漬けの購入。

 

背景は爺ヶ岳。

この寺島わさび店は我が家の御用達のひとつ。使っている酒粕がすっきりとしていて、好みの味。

瓶から出したばかりの物はスーパーで売られているのとは全く別物。

生そばと乾麺以上の違いがある。

 

 

 

いつの間にか傾きかけた太陽が浮かび上がらせた山々を眺め、満ち足りた気分で帰途に就いた。

 

 


時代に取り残された街を旅して

2017年03月06日 09時25分08秒 | 街道歩き

あれからもう何年になるのだろう。

僕らは日本橋を歩きだした。ザックひとつを背負って。

遠く京都の三条大橋を目指して。500キロ近い道のり。

歩き始めなければ始まらない。最初の一歩を踏み出さなければ。

東海道53次の旅はこのようにして始まった。確か2012年のことだ。

 

その前に中山道の踏破を終えた僕らは、次に東海道を目指した。

中山道はこの北信濃から近く、街道筋に出るのに便利だったが、東海道は遠い。

貧乏人根性がそうさせるせいもあるが、移動は鉄道の鈍行旅。

青春18切符を愛用した。

日本橋~横浜~小田原。箱根越えは後回しにして三島~浜松~宮の七里の渡しまで歩いた。何度にも分けて。

夏の間は山に登り、冬季間だけの街道歩き。

第一の目的は体作りだ。名所めぐりは二の次。ついでに見る程度。

今回は伊勢の桑名の渡しから歩き継ぐ。

旧東海道は尾張の宮の渡しから海上を船で桑名に渡ったという。

3月1日から4日までの予定。

僕らは関西本線で移動。

午後3時半くらいから歩き始めたが、あいにくの雨。

この日は四日市までの予定だったが、少し早めに切り上げて富田駅で切り上げ。15キロくらい。23,770歩。

 

翌日は四日市から富田まで戻り、四日市~鈴鹿~亀山まで。

この日は天候が回復したが、上空に寒気が入り寒かった。

四日市と言えば喘息が思い浮かぶ。

いくつかの煙突が煙とも蒸気ともつかぬものを噴き上げていた。

街道筋は古い宿場の面影が残っている地域もたくさんあった。

ただ、一番印象的だったのは商店がほとんどなく、あっても営業していないことだった。

登り旗も看板もない。コンビニも僅かで、食事処もない。

人の気配もほとんどない。

街そのものが、古代遺跡のようだった。

庄野宿でやっと見つけた骨董カフェ。

ようやくありついた食事は、名物伊勢うどん。

柔らかくて太いうどんはちょっと濃いめのツユに絡んでとても旨い。

素朴な感じの店のおばさんと少し話をした。

その中でのおばさんの一言に一瞬虚を突かれ、考え込んだ。

『どうして東海道歩いているの?』

8合目くらいまで歩いて、もう少しで山頂ということにばかり気を取られ、どうして登っているかなんて最近は、忘れていた。

 

『これ、サービスなんで...』と出してくれたのは、ぜんざい。なんと、伊勢うどんより値段が高い。

疲れた体と心に甘さが染み渡った。

オアシスを後にして、また僕らは歩き始めた。廃墟のような宿場町の遺跡の中を。

この日は亀山インターのそばまで。37キロくらい。56,138歩。

 

翌日の行程は関宿を越え、坂下から箱根に次ぐ難所鈴鹿峠越え。近江の土山から水口まで。

関宿は昔の面影が色濃く残り、店も営業しているところが多かった。

家々の木の格子には雛飾り。

 

時代に取り残されたような街道筋の宿場町で、人々はどのようにして暮らしを立てているのだろう。

そんなことがしきりと気になった。すでに住む人もない家もいくつも目に付いた。

限界集落という言葉は何も農村だけのものではないのだな。

この関宿は大きな宿だが、食料を仕入れる場所はなかった。

少し外れて道の駅で昼食用の食料を仕入れた。

この辺りでは街中で遭難することがありそうだ。

とにかく食事処がない。コンビニもない。

鈴鹿峠越えを控えて、道の駅の売店で業者が配達するのを待ち、店でおにぎりができるのを待ってやっと食料を確保。

 

坂下宿からは田舎で、道は登り。こんなところの方が僕は好きだ。

鈴鹿峠は急な登りになる。

だが、いつもの山登りに比べれば、思ったほどのことは無く、距離も短くて難なく頂上に立った。

それからの下りが長かった。

国道1号線に沿って歩くが、店は全くない。

やっとあいの土山という道の駅に到着。

ここで冷えた体をタンタンメンで温め、寿司とおにぎりをほおばる。

時は13時30分。

この辺りからは、宿の水口方面へのバスが何本かある。

かみさんには、リタイヤしてもオッケーと伝えてある。

だが、今回は弱音を吐かなかった。

以前は20キロを過ぎると、歩行速度が落ち、弱音を吐いた。

近江鉄道を渡って水口宿に入ったのは17時過ぎ。

この宿では山車を収めた、背の高い建物が各町にあり、祭りの時のにぎやかさを思わせた。

18時に宿着。

この日は38キロほど。56,138歩。

今回の旅はここまで。

東海道は、この後石部宿から草津へと続く。

中山道で草津から三条大橋まで歩いているので、行程は草津までの30キロほど。それに箱根越えが残る。

 

なんで東海道を歩いているのだろうか。

改めて考えている。もう終わりが見えてきた今になって。

それは人生の終わり近くになって人生って何だろうと考えるのにも似ているかもしれない。

 

帰路中山道でなじみの木曽谷を走る鈍行列車の窓から御岳山が見えた。

 

松本から長野への車窓からは暮れ行く常念山脈。

もうじき桜の季節が来る。

そして僕らの山登りの時期がやってくる。