聖平の朝はガスってはいたが、雨は上がった。
ここのトイレは驚いたことに水洗だった。きれいで下界と変わらない。
嘗ては山小屋のトイレと言えば汚いのが当たり前だった。隔世の感がある。
7月29日の予定は、聖岳に登って易老渡に下山。
聖岳は日本最南端の三千メートル峰。
日本百名山の一つであり、信州百名山の一つでもある。
聖岳。なんと美しい名前なのだろう。
光岳(てかりだけ)とともに簡単には行けない最奥の山。
イメージの中で、いつか宝石のように輝きを放つようになっていた。
その頂にいよいよ立つ日がきた。
寝坊なんかしていられない。
テントを撤収し、5時40分出発。
6時には西沢渡から易老渡への下山路と、聖岳への分岐点、薊畑に着いた。
相変わらず霧が流れていた。
頂上まで130分の表示。
ここにザックをデポしてサブザックに水と行動食、カメラを持って出発。
最初のピーク、小聖岳を6時30分に通過。霧の中、一瞬聖岳が見えた。
7時0分、1時間で聖岳山頂に着いた。
荷物が少ないと、なんて楽なのだろう。
標高3,013メートルの山頂は、信州百名山75座目となる。
眺望が利かないので、長居は無用。
さらに奥の奥聖岳に足を向ける。
聖岳への登りはかなりきつく、青息吐息でようやく上り着いた登山者は、とてもそれ以上奥へは行く気にならないらしく、
人影はほとんどなかった。
少しの岩場もあるが、その奥は見事なお花畑。まさに雲上の楽園。
独り占めの豊かで、濃密なひと時を過ごした。
奥聖岳は三千メートルにわずかに足りないが、聖岳から続く稜線がこの山域に重厚さと雄大なイメージを与える。
こういう脇役だが、どうしても欠かせない、そういうものが好きだ。
聖岳に戻り、このまま赤石方面に縦走して行きたい思いに駆られる。
三伏峠まで、行ってしまおうか。
食料は三日分は、優にある。脚の痺れもない。
だが、慰労度まで車を取りに来ることを考えると、そうもいかない。
高くてもタクシーで入ればよかったと、少し後悔。
名残を惜しみながら聖岳を後にする。
薊畑には8時20分に帰着。
ここから易老渡へ向けての下山が始まる。
その時、山の神様がご褒美をくれた。
これまで霧の中だった山々が、急に姿を見せた。まるで別れを惜しむみたいに。
二日間辿って来た、光岳から続く稜線。
改めて、ああ、あんな遠くからきたのかと感慨もひとしお。
わずか数分のうちに、また霧が帳を下ろした。
さらば、光、さらば、茶臼、さらば、上河内、さらば、聖。
下山路も相当に長く、急だった。
この日、三千メートルから、七百数十メートルまで、二千二百メートル以上降る。
かなり下った頃、ようやく西沢が見えた。
この川に自分でロープを手繰って移動する籠の渡しがある。
横に小さな木の橋が架かっているが、せっかくなので乗ってみる。
ワイヤーは真ん中が一番低くなっているので、そこから先が、重くてとても大変だった。
まあ、いい経験だ。
ここからは、平坦な道が続く。
振り返ると西沢の深い谷。
しばらく歩いてようやく便ヶ島に着いた。
そこには登山者とタクシーが、相乗りの客を待っていた。
自分の車のところまでは、ここから易老渡まで30分、さらに駐車場まで4キロ近く歩くことになる。
ここは二日前に通った光岳の登山口だ。
12時20分。無事に駐車場まで帰り着いた。
後はひたすら温泉を目指す。
遠山郷のかぐらの湯。
有名な霜月祭りがモチーフになっているらしい。
日本中の神様を招いて行われる祭りで、この鍋の、熱い湯をかけてもらうと健康になり、いいことがあるらしい。
鍋ならぬ湯船の湯につかり、しばし放心状態で充足感に浸っていた。
南信名物のソースかつ丼を堪能し、この山旅は終わった。
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この山旅はとても満足のいくものだったので、すべてはもう自己完結して、改めて文章にする気持ちが起きなかった。
それでも、やがては記憶も薄れていくので、その一端でも残しておこうかと、ようやくパソコンに向かった。
色々なブロガーが、書き続ける熱意にはただ脱帽するしかない。
もう、十日ほど前の内容になる。
今日は長崎に原爆が投下されてから72年目を迎える。
今年は核兵器禁止条約が出来た画期的な年になった。
犠牲者の方々に哀悼の意を捧げるとともに、この条約を批准する政府を一日も早く作りたい。
そもそも化学兵器や生物兵器が禁止になっているのに、なぜ核兵器は許されるのか。
アメリカの顔色ばかり窺う政府に未来はない。
原爆が落とされた月。終戦を迎えた月。葉月ともいう8月。この月に、僕は66歳になる。