白樺小舎便り(しらかばごやだより)

北信濃の田舎暮らしの日々

アンネのバラ  72回目の終戦記念日に

2017年08月15日 09時37分06秒 | 日記

北朝鮮とアメリカが恫喝ゲームをしている間にも、刻々と時は過ぎ、72年目の終戦記念日が来た。

世界で5,000万、アジアで2,000万、日本でも300万人以上の人が死んだ。

あの愚行を、再び繰り返すまいと誓ったはずなのに、、、

あの戦争の中で、15歳の少女、アンネ.フランクも死んだ。

『アンネの日記』を残して。

庭で一輪のバラが咲いた。

この花の名前は『アンネのバラ』。

「アンネのバラ」は、戦後、「アンネの日記」に感銘を受けたベルギーの園芸家デルフォルゲ(Delforge)氏が、平和への願いを込めて、アンネ没後15年目の1960年に新種のバラを作り、ただ一人生き残ったアンネの父、オットー・フランク氏に贈りました。そのバラは「アンネの形見」(Souvenir de Annefrank.f)と命名されました。ここの教会は、聖イエス会という教団の教会です(今日初めて知りましたが)。

1971年の演奏旅行中、この聖イエス会の合唱団は、イスラエルの町ナタニヤで、「アンネの日記」の著者であるアンネ・フランクの父オットー・フランク氏と、偶然出会いました。

その後もオットー氏との交流を深めるなかで、オットー氏から「アンネの形見」と名付けられた可憐なバラの苗10株が日本へ送られました。しかし、輸送事情が悪く、9株がダメになり、ただ1株だけが、合唱団の一員であった聖イエス会の創設者の庭で、奇跡的に花をつけました。この1株が、日本での「アンネのバラ」の起源です。 

 

こういう由来を持つバラは、知人から枝をもらい挿し木したものだ。

知人は病院の先生から頂いたという。

愛と平和のシンボルとなったこのバラは、もう少し大きくなったら挿し木で増やして、友達に配るつもり。

美しい花を見るたび、アンネのことを思い出し、戦争のことや平和のことを考えるから。

 

 

 


山の日はのんびり山三昧 

2017年08月13日 21時36分06秒 | 登山

8月11日。山の日。

暑い日が続くので、裏山に避暑に行くことにした。

裏山というのは草津白根山と、となりの本白根山。

この草津白根山は活火山で、この夏まで立ち入り禁止になっていた。

夜も交通規制がかかっていたが、解除になった。

駐車場から10分ほどで登れる。

それでも標高は2,160メートルあって、それなりの高山なのである。

一方、となりにある本白根山は2,171メートルで少し高い。

この山は少し歩きごたえがある。

リフトもかかっているが、もちろん使わない。

山頂付近の旧噴火口にはコマクサの群落がある。

 

赤やピンクのコマクサが一般的だが、まれに白いコマクサもある。

結構有名なので、ほどほどの数の登山者がいる。

繰り返すようだが、裏山なので、ほとんど毎年コマクサを見に来る。

 

 

 

 

この季節、高山の短い夏が駆け足で過ぎ去ろうとして、花たちもあわただしく秋へ装いを替えようとしていた。

季節が移ろうとする、この哀しい、そのくせ涼やかな、心の奥がツンとするような微妙な瞬間がとても好きだ。

この遊歩道最高地点の2,150メートル地点が、立ち入れる最高地点。

ここに腰を下ろし、かみさんと二人、のんびり花や山々を眺めた。

このおにぎりの中身は梅干。

この梅干しは、我が家で採れた梅とシソを使って初めて作った。

コンビニで買ったものより格段に旨かった。

コマクサの群落地から少し離れたところに鏡池がある。

人もあまり来ないし、神秘的な雰囲気もいい。

この池の周辺で、アサギマダラが優雅に舞っていた。

 

 

 

 

様々な花が咲いて、その間を僕らはこの上なくゆっくり歩いた。

近くの山を雲が急ぎ足で流れていた。

周回して、元に戻り、駐車場手前の由美池に立ち寄った。

湿原に、ワタスゲが咲いていた。

本当に綿のようなものがついている。

一面の緑の中に、白が際立つ。大好きな風景だ。

 

駐車場に戻る。

再開したレストアイスで、クマザサの入った湯釜ソフトを食べる。

濃厚な味だ。

ついでに白根山へも表敬訪問。

ヤナギランの花。

コバルトブルーの湯釜。

このあとレストハウスに戻り、腹ごしらえ。

焼きネギラーメンという一品。

香ばしく、さっぱりしていて口に合う。

 

珍しく、のんびりした山時間を過ごした。

思えば、このような山が裏山としてあるなんて、なんと恵まれているのだろう。

2日前にはすぐ隣の横手山(2,307メートル)に登ったばかり。

このところ山づいている。

 

 

 


長い間あこがれ続けた南アルプス南部の山旅 聖岳

2017年08月09日 10時22分54秒 | 登山

聖平の朝はガスってはいたが、雨は上がった。

ここのトイレは驚いたことに水洗だった。きれいで下界と変わらない。

嘗ては山小屋のトイレと言えば汚いのが当たり前だった。隔世の感がある。

7月29日の予定は、聖岳に登って易老渡に下山。

聖岳は日本最南端の三千メートル峰。

日本百名山の一つであり、信州百名山の一つでもある。

聖岳。なんと美しい名前なのだろう。

光岳(てかりだけ)とともに簡単には行けない最奥の山。

イメージの中で、いつか宝石のように輝きを放つようになっていた。

その頂にいよいよ立つ日がきた。

寝坊なんかしていられない。

 

テントを撤収し、5時40分出発。

6時には西沢渡から易老渡への下山路と、聖岳への分岐点、薊畑に着いた。

相変わらず霧が流れていた。

頂上まで130分の表示。

ここにザックをデポしてサブザックに水と行動食、カメラを持って出発。

最初のピーク、小聖岳を6時30分に通過。霧の中、一瞬聖岳が見えた。

7時0分、1時間で聖岳山頂に着いた。

荷物が少ないと、なんて楽なのだろう。

標高3,013メートルの山頂は、信州百名山75座目となる。

眺望が利かないので、長居は無用。

さらに奥の奥聖岳に足を向ける。

聖岳への登りはかなりきつく、青息吐息でようやく上り着いた登山者は、とてもそれ以上奥へは行く気にならないらしく、

人影はほとんどなかった。

少しの岩場もあるが、その奥は見事なお花畑。まさに雲上の楽園。

 

独り占めの豊かで、濃密なひと時を過ごした。

奥聖岳は三千メートルにわずかに足りないが、聖岳から続く稜線がこの山域に重厚さと雄大なイメージを与える。

こういう脇役だが、どうしても欠かせない、そういうものが好きだ。

 

聖岳に戻り、このまま赤石方面に縦走して行きたい思いに駆られる。

三伏峠まで、行ってしまおうか。

食料は三日分は、優にある。脚の痺れもない。

だが、慰労度まで車を取りに来ることを考えると、そうもいかない。

高くてもタクシーで入ればよかったと、少し後悔。

名残を惜しみながら聖岳を後にする。

 

薊畑には8時20分に帰着。

ここから易老渡へ向けての下山が始まる。

その時、山の神様がご褒美をくれた。

これまで霧の中だった山々が、急に姿を見せた。まるで別れを惜しむみたいに。

二日間辿って来た、光岳から続く稜線。

改めて、ああ、あんな遠くからきたのかと感慨もひとしお。

わずか数分のうちに、また霧が帳を下ろした。

さらば、光、さらば、茶臼、さらば、上河内、さらば、聖。

 

下山路も相当に長く、急だった。

この日、三千メートルから、七百数十メートルまで、二千二百メートル以上降る。

かなり下った頃、ようやく西沢が見えた。

この川に自分でロープを手繰って移動する籠の渡しがある。

横に小さな木の橋が架かっているが、せっかくなので乗ってみる。

ワイヤーは真ん中が一番低くなっているので、そこから先が、重くてとても大変だった。

まあ、いい経験だ。

ここからは、平坦な道が続く。

振り返ると西沢の深い谷。

しばらく歩いてようやく便ヶ島に着いた。

そこには登山者とタクシーが、相乗りの客を待っていた。

自分の車のところまでは、ここから易老渡まで30分、さらに駐車場まで4キロ近く歩くことになる。

 

ここは二日前に通った光岳の登山口だ。

 

12時20分。無事に駐車場まで帰り着いた。

後はひたすら温泉を目指す。

 

遠山郷のかぐらの湯。

有名な霜月祭りがモチーフになっているらしい。

 

日本中の神様を招いて行われる祭りで、この鍋の、熱い湯をかけてもらうと健康になり、いいことがあるらしい。

鍋ならぬ湯船の湯につかり、しばし放心状態で充足感に浸っていた。

南信名物のソースかつ丼を堪能し、この山旅は終わった。

 

***************

この山旅はとても満足のいくものだったので、すべてはもう自己完結して、改めて文章にする気持ちが起きなかった。

それでも、やがては記憶も薄れていくので、その一端でも残しておこうかと、ようやくパソコンに向かった。

色々なブロガーが、書き続ける熱意にはただ脱帽するしかない。

もう、十日ほど前の内容になる。

今日は長崎に原爆が投下されてから72年目を迎える。

今年は核兵器禁止条約が出来た画期的な年になった。

犠牲者の方々に哀悼の意を捧げるとともに、この条約を批准する政府を一日も早く作りたい。

そもそも化学兵器や生物兵器が禁止になっているのに、なぜ核兵器は許されるのか。

アメリカの顔色ばかり窺う政府に未来はない。

原爆が落とされた月。終戦を迎えた月。葉月ともいう8月。この月に、僕は66歳になる。

 

 

 

 


長い間あこがれ続けた南アルプス南部の山旅 ー 光岳~聖平小屋

2017年08月08日 22時37分45秒 | 登山

7月28日の朝は、周りのテントは早発ちで、一番最後にテントをたたんだ。

天気は薄曇りだったが、霧で遠くの眺望は利かない。

6時15分、遅い出発。

 

樹林帯の道はいかにも南アルプス


カラマツソウ。

 

 時には赤石山脈の峰々が垣間見えた。



 には木道を通り、

 

ゴゼンタチバナ。

 

 お花畑も通る。

 

易老岳を通り抜け、アップダウンを繰り返しながら喜望峰という、何やら世界地図で見たような名前のところに到着。

 

ここから空身で仁田岳を往復。

雲上のプロムナードならぬ霧中のプロムナードは次なるピーク、茶臼岳に続いていた。

 

茶臼岳。

標高2,604メートル。

信州百名山の一つ。

このピークで、我が信州百名山は74座目となる。

 

夢見心地で稜線を進むと、特徴的な岩の門が出迎えてくれる。

その名も、竹内門。

ここらで一休み。

 

 

下界ではそれほどでもないが、山で食べるとどうしてこんなにもうまいのだろう。

ついでに餅も焼いて食べた。

 

 

 

素敵な響きのツマトリソウ。

 

 

タカネバラ。

 

 

ハクサンチドリ。

 

 

ハクサンイチゲ。

 

 

イワギキョウ。

 

 

唯一残っていた残雪。

 

色々なものが目を楽しませてくれる。

 

やがて上河内岳分岐に到着。

ここも空身で往復。

ピラミッドのような秀麗な山頂から、これから辿る稜線が霧の間に透けて見えた。

南アルプスは、別名雨のアルプス。

太平洋の、たっぷり水分を含んだ空気がこの山にぶつかり雲になり、雨になる。

本当は、この秀麗な峰を信州百名山に入れたかったが、山頂がわずかに静岡側に寄っているので断念したという。

代わりに選ばれたのが、先ほど登ってきた茶臼岳という訳だ。

 

アオノツガザクラ。

 

テガタチドリ(多分)。

 

マツムシソウ。

日本のエーデルワイス。

 

色々な花が、それぞれの分を守って、静かにそこにある。

 

13時15分、幕営地の聖平小屋に到着。

7時間の霧中散歩だった。

聖平小屋に着いた途端、土砂降りの雨。

お天気の神様がついている、とは自他ともに認めるところ。

受付を済ませ、サービスのフルーツポンチをごちそうになる。

 

テント場には既にいくつかのテントが張られていたが、雨が止むのを待ってから張ることにした。

フルーツポンチをお代わりしながら、雨が止むのを待っていると、ずぶ濡れになった登山者たちが次々と到着。

わずかの差で、ぬれずに済んだ身と、濡れネズミになってしまう身と、いったい何がそれを分けたのだろうか。

そんなことを取り留めもなく考える。

非科学的なことは信じないたちだが、それでも不思議と天気には恵まれる。代わりにクジ運は最低。

日頃の行いのせいにしておけばいいのだろうか。

かみさんは「余程、山の神様に愛されているのだ」という。

自分でも、、、、そう思う。(かなり厚かましいか)

 

ここが今夜の我が宿。

 

 我が愛する山々に乾杯!

 

最近のフリーズドライ食品は、昔と比べれば雲泥の差。

充分に実用になる。

ひと時止んでいた雨が、また静かに降り始めていた。

夜は聖平に徐々に充ちていき、僕は満ち足りた眠りに落ちて行った。


(光小屋~聖平の項終わり)





長い間あこがれ続けた南アルプス南部の山旅 ー 光岳

2017年08月08日 13時32分08秒 | 登山

あれからもう何年経つだろうか。

南アルプスの北部、北のはずれの夜叉神峠から、30キロ近いザックを担いで登って行った。たった一人で。

鳳凰三山を登り、北沢峠。

甲斐駒ケ岳に登り、仙丈岳。

野呂川越えから北岳、間ノ岳、農鳥、西農鳥、そして熊ノ平。

塩見岳を経て三伏峠、大鹿村へ下山。

いつか残りの南アルプス南部の縦走をしようと思っていた。

数えてみればもう35年以上昔のことだ。

 

 * * * * * * * * * * * * * *

 

この春、買い物途中やランニング途中で脚が痺れて、立っていられない症状に襲われた。

外科医は冷徹に告げた。

『典型的な脊柱管狭窄症ですな』

それでも、南アルプス南部への山旅の思いは捨てられなかった。

ランニングで磨り減ってしまったトレランシューズを新調した。

 

テント、寝袋、防寒着、炊事用具、雨具、食料を用意した。

 

入山口を調べた。光岳から聖、赤石、荒川、三伏峠と辿るのが一番妥当だと思えた。

ところが公共交通機関利用だと、入山口の易老渡までタクシーで1万6千円ほどかかるらしい。

あきらめて自家用車で行くことにした。

そうすると同じところに下山しなければならない。

改めて計画を練り直した。

今回は易老渡~光岳~聖岳~易老渡の周遊コースにしよう。

 

* * * * * * *

 

7月27日午前2時に出発。

同じ長野県とはいえ、北と南。二百数十キロの距離がある。これは東海道の、実に半分の距離に当たる。

易老渡には現在タクシーしか乗り入れできない。

自家用車は4キロほど手前の駐車場に停める。

 

6時半、貧乏人は、ここから歩く。

途中、何台かのタクシーが下って行き、登って行った。

久しぶりに背負った幕営用の荷が、きりきりと肩に食い込んだ。

傍らに遠山川の激流を見ながら、前かがみになりながらひたすら歩いた。

若いころは、こんな風に上高地あたりを歩いていたなあ。

50分ほど歩いて、光岳の入山口に着いた。

 

 

この橋を渡れば、いよいよ登山路になる。

少し歩くと、先ほどのタクシーで入ったらしい富裕層の人々が、二人、少し離れてまた二人、その先には単独の人という風に、それぞれのペースで登っている。

急な坂が続き、先行者は路を譲る。

いかにも南アルプスらしい、苔むした林の中を、たくさんの汗をかきながら歩き続けた。

 

霧の中で、木の葉が美しかった。

 

 

登山道には数字の標識。

この数字が、ペース配分と心理的な励み。

稜線の易老岳には11時20分に着いた。易老渡から4時間。

標準のコースタイムは5時間40分。重い荷を背負っていたことを考えれば、まずまずの成果。

腰の痛みも全くない。脚も痺れない。

この体は、もはや山登りに特化してしまったか。

稜線を右に辿れば光岳、左に辿れば聖岳。

今回は光岳を往復してここに戻り、聖岳を目指す。

稜線上は霧が出て、眺望は利かない。

南アルプスらしく2500メートル付近でも豊かな森林が登山道の両側に続く。

途中、イザルガ岳への分岐がある。

ザックを置いて、空身で往復。

ザックを下ろすと、体が妙に軽く、歩いても、体がふわふわしていた。すっかり重さになじんでしまったのだ。

この感じは本当に久しぶり。

 

 

静高平という草原に出た。

高山植物が咲いていた。

露に濡れたハクサンフウロ。

 

 

南アルプスのおいしい水。

飲み放題。

 

光小屋に着いたのは1時20分。易老渡から6時間。

小屋で受付。早い到着なので、テント場は一番乗り。

 

一番奥が我が家。

まだ早いので光岳と光石を往復することにした。

光岳はテカリダケと読む。

『山名の起こりは、寸俣川の谷間からこの山を望むと、満月の夜には山頂付近の岩が月の光を反射してキラキラ光ることからきたものであるといわれる。本当に何とロマンチックな山名なのだろうか。しかも【てかり】という鄙びた方言がまた山の深さを物語って、なんともいえぬ暖かさをもっている。深い針葉樹林に包まれた山腹の、こんもり茂る黒木の中に、白い大きな岩が神秘的な月の光を浴びて光る静かな夜の光景は、心に描いてみるだにロマンチックな絵そのものである。』

信州百名山の著者、我が敬愛する清水栄一はこのように書く。

 

2,591メートルの山頂は数人の登山者。

日本百名山の最後の山が、この光岳だという人に、この山旅で3人に出会った。

やはり、縦走路から大きく外れたこの山は、まさに奥深い山なのだ。

そして、南アルプス最南の日本百名山。そして、世界でも最も南にハイマツのある山。

 

 

これがテカリ石。向こう側は恐ろしく切り立った崖になっていた。

 

 

夕刻、霧が晴れた。

 

 

雲海の中に、南アルプス最南部から見た赤石山脈の峰々が島のように浮かんでいた。

 

隣のテントの青年は、一週間かけて北沢峠から縦走してきたという。

その間ずっと雨に降られたと、それでも満ち足りた顔で言う。

 

 

そんな中で、こんな景色を見られれば、言うことはない。

ながいながい間、想い続けた山の懐に抱かれて、テントの中で眠りに就いた。

 

(光岳の項終わり)