この一ヶ月をどのように過ごしてきたのだろう。
色々な花が咲き、散って行った。
今、蕎麦の花が咲いている。
何かに追い立てられるように、毎日やることがある。
退職したオヤジが何をしてよいかわからず家にいて、カミサンから邪魔者扱いされるという話を聞く。
反対に僕はやることが多過ぎる。
昨日、オーナーになっている棚田の田植えに行って来た。
庭の手入れがある。
知人から頼まれている借りてい
る畑作業がたくさんある。
手作りの物置小屋の防腐剤塗りがある。
梅雨入り前の北アルプスにも登りに行きたい。
バイクツーリングもやりたい。
剪定作業がふたつある。
ミツバチの巣箱作りがある。
そんな風に、忙しく過ごしているのだが、ふと気付くと戦争法案が審議入りしている。
戦争をして喜ぶのは武器商人だけだ。
そこから政治献金という名のわいろをもらっているのだろう。
安倍よ、おぬしも悪よのう。
雨がちっとも降らないけれど、この時期になると決まって浮かんでくる曲がある。
カスケーズ『悲しき雨音』、ジリオラ チンクェッティ『雨』、湯原昌幸『雨のバラード』、ちあきなおみ『雨に濡れた慕情』、太田裕美『雨だれ』、、、、、、
雨にちなむ歌はたくさんあるけれど、僕が少年から青年に変わる多感な時代にラジオから流れていた曲が一番印象深い。
今、これらの歌を聴くと、柔らか過ぎる心と、漠とした未来への不安と、淡い恋心とを持ったあの頃の自分に帰ったようで、柄にもなくセンチメンタルな気分になる。
あの日から、僕は一体何をして今まで生きてきたのだろう。
もう明らかに折り返し点を過ぎて、いまさらどうすることも出来ないけれど、それでもふと立ち止まって振り返ってみたくなる。
科学技術が進歩して、便利さを追い求め、多分大事な物を置き去りにしてしまったりはしていないだろうか。
時々思う。
携帯電話は持たない。
車もできるだけ乗らない。
エレベーターは使わない。
除草剤も農薬も使わない。
味噌もとうふも、豆からの手作り。
精米も、パン焼きも、ヨーグルト作りも自家製。
コーヒー豆も自家焙煎。
蕎麦も自家製粉からの手打ち。
時代から取り残されたような生活の中に生きるということの大切な核というようなものがあるような気がして。
今日の一枚
ブロッコリー
雪のある頃に種を播き、リビングで大切に育てた。
今日、いよいよ収穫。
無農薬、無化学肥料。
安全、安心は食でも一番大事。