あくまでもそれは、登山の訓練の一環だった。
速さはそれほど重要ではなかった。
長い距離、長い時間を走れることが大事だった。
そんなことを、ある意味言い訳にしながら、半ば副業的な感覚で、僕はこれまで走って来た。
この春、まだ雪が残る景色の中、カチューシャマラソンを目指して、主に千曲川の堤防でトレーニングを始めた。
時々、脊柱管狭窄症の間欠破行の症状が出たが、騙しだまし走り続けた。
ハーフマラソンでは2時間を切るタイムを出した。
だが、3月に入って、体調の不良や、区の役員の仕事、実家の解体や法務局への登記、土地売買の契約書の作成、交渉、さらに、新作のセルフビルドの小屋作り、トイレの改修、等々色々な雑事に追われて、まったく走れなく(走らなく)なっていた。
5月20日のマラソン大会の日は迫り、僕は自分に言い訳をし始めた。
練習できなかったし、ぶっつけ本番だし、制限時間の2時間30分を目標にしよう。
半面、去年は狭窄症の症状に苦しみながら、2時間15分、一昨年は2時間2分のタイムで走っている。できれば、2時間切りを果たしたい。それが、僕の本心だった。
今年になって僕は衝撃的な事実に気が付いてしまった。
ランニングウォッチを買って、ランニングピッチを調べてみたら、速く走っても遅く走っても165だった。
それはすなわちストライドを変えて走っていることになる。ストライド走法、それも遅いピッチのストライド走法だったのだ。
ぼくは走法を変えた。ピッチを180から185くらいに速めた。歩幅を狭くした。それが、腰への負担を減らしたのだろう。
そして、キロ6分を切るのが大変だったのが、キロ5分くらいでも走れるようになった(長くは続かないが)。
キロ5分は100メートルを30秒で走る速さだ。一流の選手は100メートル17秒くらいで走る。女子選手は19秒くらいだろうか。
そんな風に、一からランニングフォームを作り直した。
それが功を奏したのだろうか。前から構想していた飯山線に沿ったランニング旅を1週間前に第1回を行ったが、間欠破行の症状は出なかった。18キロほどを走ったが、ピッチは180ほどを刻んでいた。
千曲川を眺めながら飯山線沿いのゆったりランニング旅を楽しみながら、100キロほど先の越後川口まで、多分行きつけるだろう。もちろん何回かに分けて。そんな希望が湧いてきてもいるのだった。
さて、当日のカチューシャマラソンの朝、この時期としてはかなり寒かった。
ランシャツ、ランパンの上にジャージを重ねて中野市の会場に行った。
この町は僕が3年間高校生活を送った街だ。
北に、特に雪をかぶった姿は秀逸な高社山が街のシンボルとしてある。
北欧にも似た(行ったことはないけれど)淀みないさわやかな風が吹き抜ける印象がある。
僕はひそかに『北の街』と呼んで、夢想の中でいろいろな物語を織った。
原田康子の『挽歌』に描かれた釧路の街にも似ている気がした。
あの頃の僕は、まだ現実世界と切り結ばない夢想家だったのだ。どんな風な未来もあり得た。
場所へのホームシックだけではなく、特定の、過ぎてしまった時代への強烈なノスタルジァ、すなわち時間に対するホームシックというようなものが確かにあって、時として居ても立ってもいられなくなることがある。この北の街にもそれはある。
北信五岳、鹿島槍、五竜などが屏風のように並んだ残雪の北アルプスも冷たい空気の中でくっきり見えた。
会場は中野小学校。
一昨年、去年と比べて、参加者が減っているように見えた。
だが、巨大な有名大会よりも、ひっそりと行われているような、地方の大会の方が自分には合っている。
3キロウォーキング、5キロ、10キロ、ハーフという種目があり、さらに男子は39歳以下、40代、50代、60歳以上、女子は高校生以上、というようなランク分けがあるが、同じ距離ならスタートは同時。
会場には無料でマッサージをしてくれるサービスがある。
むろん、揉みほぐしててもらう。
隣で揉んでもらっている女性とトレーナーとの会話が耳に入り、思わずそちらを見てしまう。
相当走っているらしい。それでも、足首が固いですね。腰の外側が張っています。等々。まだそんなに年配でもないけれど、色々な問題を抱えているらしい。
僕は、それほどのことは言われずニンマリ。自分なりにストレッチ(柔軟体操という言い方の方が好きだな)はやっているし、柔軟性には自信がある。ただ、走る前にあまり柔軟性ばかり追い求めると、スピードが出なくなるということもあるらしい。難しいことだ。怪我だけはしたくないので、その点は留意している。
開会式の後、アトラクションで太鼓の演奏があった。
腹の底に響くような太鼓の音は、いつ聞いても魂に響く。
会場では多くの人がウォーミングアップに余念がない。
僕と言えば、なんとなく体をほぐす程度に歩き回ったり、写真を撮ったりするだけ。
いつも通り、ウォーミングアップは走っている中で徐々に、という方針。
スタート5分前。一番前はハーフ。
その後ろは10キロ。
ハーフ参加の僕は、その間の、すなわちハーフの一番後ろに並ぶ。
21キロ以上ある長丁場、スタートで前だろうが後だろうが、僕の走力ではさほどの違いはない。
むしろ、混雑の中を走る方が嫌だ。わがままだから。
やがてスタートの合図が鳴り、一斉に走り出す。
身に付けたリズム、1分間180のピッチだけを意識しながら走る。
キロ5分30秒ペース。
キロ5分40秒でハーフは2時間切りのペースになる。
大事なのはこのピッチ、このペースを守ることだ。
他人のペースなどは気にしない。惑わされないことだ。
気持ちの良い田園の風景。都会の大会では決して味わえない風景。
給水所や道端での声援もうれしい。
上り下りもあるが、折り返しまでは、基本的に下りコース。
体力の充電量は半分以上、ある。多分。
走っていると、色々な人がいる。
きれいな走り方だなと思われる人、え?あんな走り方で速いの?というような人、楽に走っているように見える人、とにかく力いっぱい頑張って走っているんだなあという人、あんな走り方でなんで俺より前にいるんだろう?というような人。十人十色。
僕は美しく走りたいと思う。力まず、体の一部だけに無理な力を加えず、腰を高めに、体が自然に前に倒れるように前傾し、肩甲骨を使って推進力に換え、全身をバランスよく使って、忍者のように、行者のように、仙人のように走りたいと思う。
去年一昨年は真夏のような暑さで、途中熱中症でダウンする人も出たが、今回は涼しいので走りやすい。
折り返し地点まで来て、ランナーのペースは大体一定になった。
前を行く若者とは大体同じペースで、折り返しの撮影で僕が少しペースを落とした。
大体カメラを片手に走っているのは少し不謹慎な気もしたが、まあいいではないか。
これがなければ、多分ゴールタイムが2~3分速くなっていただろうが、2じかんをきれればいいとしよう。
給水所は何か所かあって、水とスポーツドリンクが置いてある。
一か所だけバナナも置いてあり、往路と帰路にごちそうになった。
水やドリンクも飲んでみたが、走りながら飲むのは相当に難しい。
一流選手はスピードを落とさず飲むけれど、ほとんど歩くか立ち止まらないと飲めやしない。
カップの口をつぶして飲むのがコツだとテレビで言っていたけれど、たやすいことではない。
看板は何キロ地点から残り何キロに代わり、沿道の声援も多くなる。
それを励みに走り続ける。
登り基調なので、ピッチがし越し落ち、ペースが遅くなるが、時計を確認すると2時間切りにはまだ余裕がある。
グランドに入りゴールのゲートが見えた。
少しだけスピードを上げてゴールに飛び込んだ。
タイムは1時間57分41秒。昨年より17分19秒の短縮。
60代以上の参加者41名中17位。
段々と歳を重ね、現状維持さえ難しい年ごろなのに、この成果は誇っても良いのではないだろうか。
登山の訓練の一環で、副業的なランニングという位置づけも、そろそろ外さなければなるまい。
これで、やっとランナーの仲間入りができた気がする。
ゲストランナーの庄野真代さんも元気な姿を見せた。10キロに参加された模様。
因みに、子供たちは『庄野真代って誰?』と。。。
会場には『飛んでイスタンブール』『モンテカルロで乾杯』などの曲が流れていた。
あの頃のあの異国情緒溢れる曲調、ハスキーな歌声。嫌いではなかった。
確か世界一周の旅にも出たんだよな。
そして、今ランニングを続けている。同じ時代を生きていた連帯感を感じる。
レース後の補給は中野市の特産、キノコがたくさん入ったトン汁。
5杯くらいお代わりをした。
もう一つのお楽しみは特産物の抽選。
じゃんけん大会で、キノコの詰め合わせをゲット。
籤運が悪いと自認する僕には、格別にうれしい出来事。
帰宅すると、今年初めてのニッコウキスゲの花が出迎えてくれた。
多分よく頑張った、と花を咲かせて待っていてくれたのだろう。