それだけをとってみれば、美しい富士山の形。
有明富士とも呼ばれるその山は、標高だって2,268mある。
関東平野に持って行ってドンと置けば、雲取山より高く間違いなく第一級の山となるだろう。
安曇野から端正な姿を眺めながら、人はその有明山の蔭にある燕岳を目指して通過してしまう。
燕岳の登山口、中房温泉から1キロ手前に有明山の登山口は有る。
百人が燕岳を目指す中、一人が有明山に登る。
この山のおかれた場所があまりにも不遇なのだ。
燕岳は北アルプスの表銀座コースの入り口にあたる。
そんなスターの脇にぽつねんと立っている。
この山は修験者の山として開かれただけに、険しい登山道を持っている。
山行記録を読むと、ほとんどの人がその険しさについて書いている。
かつて、御多分にもれず僕もひたすら表銀座を目指した。
だが、心の中では『いつか登るべき山』としての位置をしっかり占めていた。
梅雨入り宣言は出たが、10日は晴天の予報に、有明山に登ってみようと思い立った。
国民宿舎有明荘の裏にある駐車場に車を停めた。
車が数台停まっていたが、登山者のものか宿泊者のものか旅館関係者のものかわからなかった。
7時20分に歩き始めた。
樹林帯の中に道は細くうねうねと続いていた。
ともすればはやる気持ちを抑えながら、それでも早いペースで登って行った。
途中、一人で登る男性に追いついた。
少し話をする。
川崎から来たという。
何とモノ好きな......と思う。
シャクナゲが咲いていた。
桜色の、そこだけ何かほの暖かくなるような、上質の気品溢れる花。
山の中で、このような花に出会うことは山登りの大きな楽しみのひとつ。
険しさを増した道には、鎖場や梯子が設置されている。
適度な緊張感が気持ちをシャキッとさせてくれる。
その瞬間瞬間を生きることに懸命になれる、余計なことを考えない貴重な時間。
これも山登りの大きな喜びのひとつ。
山の中では特別に濃密な時間が流れているようだ。
このペースならどこまでも登っていける。
体には重さなんて無い。
ましてや、心には羽が付いていてどこまでも羽ばたいていける。
クライミングハイ。
この感覚を味わいたくて、僕は山に登り続けているのかもしれない。
樹林帯から稜線に飛びだした。
突然視界が開け、雲海の向こうに北アルプスの峰々が残雪をその身にまとい、額縁の無い絵のように置かれていた。
山頂が目の前にあった。
避雷針を兼ねた大きな鳥居は金ぴかの金属で出来ていたが、その奥には木製の古い神社があった。
その、あまりのアンバランスに思わず笑ってしまった。
ここは2,286メートルの北岳にある有明神社。
この先に中岳があり、そこに向かう細い稜線の脇に、ピンクのシャクナゲを見た。
この山で見たシャクナゲの花の色はここで見た一本だけが濃いピンクで、他は全て淡い桜色だった。
神域で、ここだけ特別なのかもしれない。
南岳の山頂に奥社があった。
登り始めて1時間45分。コースタイムの半分だ。
こんな険しい山の奥にしては立派な神社だった。
流石に修験者の愛した信仰の山だけのことはある。
参拝を済ませ、360度の立体画の一部となって全てを宇宙に身を任せきった。
自分の足で歩いてきた。
周りの人たちにたくさん助けられても来たが、それでも全部の力を出し切って生きてきた。
辿り来て いまだ山麓
人生は山登りに似ているとは言わない。
あまりに気障だから。
だが、こんな風に全てを何かに委ねて力を抜くことだって必要だ。
『あんなことを一生懸命考える必要がどこにあるのだろう 信濃高原では雄すすきの穂がなびき、、、、』
詩人立原道造は、堀辰雄に宛てた手紙の中で、そう書き送る。
ほとんど風も無く、うららかな日差しが柔らかく降り注ぐ。
神社の土台になっている石垣の上に腰を掛け、持参したにらせんべいを食べた。
とても懐かしい味。
いにしえの修験者も食べたのだろうか。
この山にファーストフードは似合わない.
このまま、自然の風景に溶け込んで定着してしまう前に、さあ降りよう。
帰路、少し寄り道をして三段の滝とたるさわの滝を見た。
新緑の中に白い水しぶきが眩しかった。
そこは中房の大駐車場から少し奥に入ったところにあったのだ。
ちっとも知らなかった。
燕岳を目指す眼には入らなかったのだ。
心ここにあらざれば見えども見えず、聞けども聞けず。
一歩引いてゆったり構えれば見えてくるものがある。
人があまり登らない不遇の山と言われるが、ひねくれ者の登山者にとって、それが大きな僥倖となっている。
車を停めた駐車場に10時五〇分着着。
さっそく眼の前の有明荘に行く。温泉に入る為に。
この温泉は硫黄の匂いがする。
大好きな温泉のひとつだ。
山登りをした後、温泉に浸かる。
これもまた、山登りを続ける大きな理由のひとつ。
今は安曇野市と名前が変わってしまったが、ここは穂高町。
名産のワサビ漬けを買わない手はない。
我家御用達のわさび屋さんが何軒かある。
今回は大町市を通って、その山岳美を眺めて帰る予定なので、途中にある寺島わさび店にした。
スーパーにあるわさび漬けとはまったくの別物で、カメから出してくれる。
熟成が進むので、1週間くらいで食べきらないとまずくなる。
合成保存料など使ってないのだ。
若返りのビタミンと言われるビタミンEを多く含むので、お土産にして友人知人にも配る。
予想通り、大町から眺める鹿島槍ヶ岳や爺ヶ岳の雄姿はヨーロッパアルプスの写真にも出て来そうな気品があった。
手前にある田園風景が、山とよくマッチしてここが日本であることを教えてくれる。
僕も農耕民族の末裔であることを、この風景を前にした時の深い感動が教えてくれる。
帰宅した庭に、薄紫のホタルブクロが2本、今年初めて花を付けて迎えてくれた。