白樺小舎便り(しらかばごやだより)

北信濃の田舎暮らしの日々

実りの季節だが 

2017年10月08日 22時00分28秒 | 日記

ボンボンあり。

歳を経た雌狸に、手もなく誑し込まれ(たらしこまれ)、さて朝が来て、明るい太陽の下(もと)、

はっと気づいたときに、果たして何思う。

秋、豊かな実りの季節。収穫はあるのだろうか。

 

我が家の菜園では、サツマイモを試し掘り。

去年は、ほとんどモグラとネズミにやられて、ろくなものは採れなかった。

今年は大きさも申し分なく、齧られてもいない。

保存が大変なので、苗は20本程植えただけだ。

この分ならと、全部掘りあげた。

中には小さいのも少しあったが、特大の物もあった。

干して甘みが出たら、天ぷらにしよう。

焼き芋も石焼き芋にしてみよう。

 

 

秋のジャガイモ、デジマも1キロ播いてみた。他にアンデスレッドも1キロ。

この花はデジマのもの。

花の形を眺めていると、色こそ違え、ナスにそっくり。やっぱりナス科なんだな。

秋のジャガイモは今年初挑戦。

休眠期間が短いので、芽が出やすい。長期保存には向かない。

どんな芋ができるのか楽しみだ。

 

三ヶ月が過ぎた孫の琉君の動画と写真が送られてきた。

お食い初めの儀。

大きな鯛が食卓の上にあり、母親が箸で口元に運ぶが、見向きもしない。

やっぱり母乳の方がいいのだろう。

この子が大きくなった時に、この国が戦争をする国になっていたら困るから、そうならないようにできる範囲で頑張ろう。

去っていく身、あとは野となれ山となれ。洪水よ、我が亡き後に来たれ。

そんなわけにはいかない。

 

 

 

 

 


どこかもの悲しく 懐かしく 秋の棚田は心に沁みた

2017年10月05日 19時54分39秒 | 日記

中条の棚田で稲の苗を植えたのは5月。

9月の終わりに稲刈りをすると、田んぼの会の会長、小林さんから連絡が来た。

田んぼの会を立ち上げた小林さんは、今年84歳。

会員は都会の人たちが半分以上。

信州の会員は、会長、副会長も含めて5世帯。

多分にひがんだ言い方になるが、都会の人たちは、いわゆるお偉いさんが多く、富裕層だ。

乗っている車からして.... まあいい。

中条はかつては村だったが、今は長野市に吸収された。

中条の中でもかなり奥深い場所に棚田はあり、棚田百選にも選ばれている。大西の棚田という。


会長も高齢になり、いつまで続くかという状況の中で、今年最後のイベント、稲刈りが行われた。

 

 

耕して天に至る

今年建立された棚田百選の碑にはこの言葉が刻まれている。

ここは限界集落で、すぐ隣の耕作放棄地は草ぼうぼうで、イノシシの巣になっているという。

仕方がないので電柵を張ったと小林さんは言う。

小林さんの集落は、すでに2世帯しか住んでいない。

弱弱しくなった柔らかい秋の日の午後の陽射しの中で、稲刈りとハゼ掛けの作業が始まった。

会長と副会長。風格がある。

 

 

作業終了。

あとは、おこびれ(おやつのことですね)の時間。

会長の奥さんが作る煮物、漬物、おやきが絶品。

おやきは北信濃のソウルフード。

 

世間では虚しい政治ごっこが行われているが、実体のない茶番劇だ。

地に足を付けた人の暮らしがここにある。

物を作り出す人の喜びがここにある。

世界の富裕層のトップ8人の資産と、75億人近い世界の人口の半分の人たちの資産が同等だという。

実際に物を生み出し働く人たちの成果を奪い取って、肥え太っている社会の仕組みが、おかしいことにみんな気付くべき時だ。

『ここにくるとほっとするんだ』

横浜からきた人がしみじみと言った。

 

いつもはやきもち家で交流会をするのだが、今回は満杯で部屋が空いていないという。

お偉いさんグループはやきもち家で温泉にだけ入り、長野駅前で慰労会をする。

後の人たちは小林さんの自宅で交流会。

都会のネズミと田舎のネズミみたいに溶け合わないなと、なんとなく笑ってしまう。

残った人たちといろいろな話をする。

八王子から一人車を飛ばしてきた女性は、単独行で山に登る。

山の話で盛り上がる。

中野市からの参加者は、春に北国街道歩きを進めておいたが、すでに軽井沢の追分から善光寺まですでに到達したと話す。

俺たちは北國街道から始まって、中山道を完歩、そして東海道はあと2宿を残すだけとなったことを話す。

市会議員や市の職員も来たので、しばし議論。

『合併しても限界集落は変わらないし、予算は駅周辺の開発に注ぎ込まれ、辺地はちっとも良くならない。そもそも、合併前は、曲がりなりにも自分たちの裁量で使える予算があった。今ではひたすら陳情してお願いするしかない。希望に身売りした民進みたいじゃないか(これは心の声)。』

 

もう一人、毛色の変わった女の子もいる。

東京から来ているのだが、大学院を出て、信州に来て森林の研究をしたり、今はスリランカの研究をしているという。

市の職員と飲みながら、今年度中には結婚する予定だという。ただ相手は決まっていない。誰でもいい、紹介してください、という。ただひとつの条件は、この村から出て生活をしたことがない人はお断りだという。

おじさんとおばさん(おじいさんとおばあさんが正しい)ばかりの中で、4年近く田んぼの会に参加してきている。

小林さんの家に泊まりに来たり、手伝いをしたり、懐に入り込んでなついている。

色々文句を言うが、小林さんもかわいくて仕方がない様子。

今夜東京に帰るというが、この山奥からはバスもない。

そこで、帰りがけに長野駅まで送っていくことになった。

車中、少し話をした。

若く見えるが、今35歳で今年度結婚したいというのは、その辺の事情があるという。

いい娘なのだが、頭が良すぎてなかなか釣り合う男がいないのだろう。

誰でもいいというのは宴席で調子を合わせていただけ。

したたかだ。

来年の田植えには二人で現れるだろうか。

それよりも前に、棚田田んぼの会は来年も存続するのだろうか。

一抹の不安と寂しさを感じながら、家に向かった。

 

 

 


あれからもう40年が過ぎ......

2017年10月03日 09時47分14秒 | 登山

俺が初めて西穂高岳に足を踏み入れたのは40年以上前の冬のことだ。

友達と二人で奥飛騨温泉郷の民宿に泊まり、翌朝新穂高ロープウェイで西穂山荘まで登った。

西穂山荘は内部が石積になっており、半分石室のようだったが、小屋版のおじいさんが居て、息が白くなるほど寒かった。

大した装備も技術もあるわけもなく、独標まで行くことなど無理だった。

ロープウェイの駅まで下る頃には強い風が吹き、ロープウェイは運休になっていた。

吹雪の中、ふもとまで歩いて降った。

山登りはやはり歩くことが基本だと、半ば強がりながら、それでも竿度の悲壮感もなかった。

 

その後数年して、女の山友達ができた。

リクエストは西穂から奥穂への縦走。

そこで、もう一人を誘って上高地から登ることにした。

前夜込み高地に入り、車で仮眠。

西穂に登り、ジャンダルムから奥穂を経て北穂で幕営。

翌日は大キレットを越えて槍に登り、槍沢から上高地に下山。

その女友達は今埼玉に住み、毎年三陸のサンマを送ってくれる。

今、そのサンマを毎日食べている。

こちらからはリンゴを送る。

時々、山の便りを書く。

あれから40年近い年月が流れ、俺には6月のおわりに孫が出来た。

それからひと月後に、彼女の娘にも孫が生まれたという。

古い山の友達はいいものだ。

 

 

去年、くにこさんが言った。

『ねえ、独標まで連れて行ってくれない?』

西穂高岳の独標は西穂山荘から1時間半くらいの、比較的安全なコースだが、多分くにこさんの足では一泊しないと登れない。

色々な都合で、9月28,29日で登ることに決定。

くにこさんは今年74歳になった。

北海道や九州の山にも登ったことがある。

ただ、岩場はほとんど経験がない。

今回はかみさんも連れて行くことにした。

かみさんは奥穂、北穂、前穂と登っているので、穂高の仕上げということで、岩場だからとしり込みするのを説き伏せた。

28にロープウェイで登り、1時間半歩いて西穂山荘に着いた。

きれいな小屋で、40年前の面影などどこにもなかった。少し寂しい。

テントは6張り。宿泊客はおそらく40人以下。この点はうれしい。

俺たちの部屋は6人部屋で、横幅は一人畳一枚分。縦方向もゆとりがある。

夕食は豪華だった。下界の洋食屋のメニューだといっても違和感がないほどだった。

これが山小屋の当たり前の食事だと思い込んでしまうであろう若者たちに告ぐ。

山の飯の本当のうまさというものは、苦労して自分で担ぎ上げた食材で作った食事に勝るものはない。

夕食の最中、太陽が雲を茜色に染めた。

箸を動かすのも忘れて、色合いが微妙に変わっていくのを見つめていた。

それは太陽が分かれ際のあいさつを送ってくれているようだった。

昼と夜との境、季節の変わり目、両方が入り混じったそんなときがたまらなく好きだ。

 

夜は素晴らしい星空。

明け方はぐっと気温が下がり、氷が張った。水道も凍ってしまって、水が出なかった。

日の出前の、空が微妙に色を変えていくのを何度も見に行った。

雲海の向こうに八ヶ岳、南アルプスが浮かんでいた。

やがて日が昇り、反対側の笠ヶ岳の雄姿がくっきりと表れた。

岩のひだまでくっきりと見えた。

長女とあの山頂でテントを張り、月を見たのは何年前だろう。

年を取ると昔の思い出が増える。

それは多分良いことなのだろう。

 

 

朝食は焼き魚がメインで、俺の好みに合っていた。

宿泊客の多くはすでに出発していて、朝食を食べに来たのは十人と少しだけ。

早い人は3時過ぎに出て行った。

俺たちは6時10分に出発。

稜線は新穂高川からの風がかなり強く吹いていた。

独標までは、ごろごろした石の道や、岩場の道ではあったが、まあ普通の登山道だ。

南アルプスの左肩にチョコンと富士山が見えていた。

急な岩場を登って独標に着いた。

 

前穂、霞沢岳、焼岳、乗鞍、笠ヶ岳、裏銀座の山々。名前もよくわからない山々の重なりの中の中心に俺たちはいた。

くにこさんの希望は独標までということで、一応ガイドの役割は果たした。

目の前にはいくつものピークがあり、その先に西穂山頂はある。

見るからに細く急で、切り立った岩場の連続。

かみさんも怖気づいている。

 

案ずるより産むが易し。行けるところまで行ってみようと出発。

くにこさんは、いかにもぎこちなくロボットのような歩き方をする。

『ヨガをやったり、柔軟体操をしたり、もっと体を柔らかくしないと山を歩くのは大変だよ』

そんなことでは剣なんか行かれない、というと剣はもう諦めたという。

新穂高側の谷で霧が沸き、上高地側に稜線を越えて速い速度で流れ始めた。

 

俺たちは次第にその霧の中に入っていった。笠ヶ岳の山頂も雲の布団をかぶった。

独標は11峰、次のピークは10峰、そして9,8と数を減じていき、西穂高岳の山頂は1峰となる。

どうしたらいいの?

岩場の途中でくにこさんが、立ち往生。

うーむ。改めて頭で考えると難しい。

俺は勝手に体が動いて何ということもなく通過してしまったところだ。

恐怖心が体を縛ってしまう。手を貸しながら難所を通過。

西穂の山頂が近づく。

急な岩場を登ると、そこが頂上。

独標までと決め、それでも頑張って難所の岩場を攀じってきたくにこさんは、西穂高岳の標識に抱き着いた。

 

その顔はとても幸せそうで、連れてきてあげてよかったと心から思った。

 

山登りを続けて、もう40年以上が過ぎた。

昔、一緒に登った人たちのほとんどはもう登っていない。

来年は、南アルプス南部の赤石岳から塩見岳までの縦走を完成させ、北アルプスの裏銀座の縦走を企てている。

信州百名山も77座目まで到達。来年は限りなく100に近づけたい。

日本百名山の著者、深田久弥が亡くなったのは68歳。

俺は来年67歳になる。

 

秋が深まり、それとともに気分も感傷的になるが、それも悪くない。

写真もたくさん撮ったが、たくさん張り付けるのはやめにした。

こんな気分の時はしみじみとした文章を書きたい。

出来ることなら、写真は無しで、文章だけで生き生きとした山の様子を記してみたい。

そんな文才がないので、最低限の写真を厳選して張り付けた。