
「何の為に大学に行くのか」・・・この問いには多くの答えが存在することだろう。
大学を目指す人の数だけその答えは有るといってよい。
しかし、何の為に多くの大学が設立されたかに思いを致すと、その答えははっきりしている。
「何の為に大学に行くのか」それは「大学へ行きたくとも行けない人」の為にいくのである。
そして「大学へ行けなかった人の為に」高度な学問を修め、社会と人々の為に貢献するために大学へ行くのである。
大学の存在意義もそこにある。医療、政治、経済、科学、芸術・・・すべての分野で、社会に貢献するために高度な学問を修める、その為に大学に行くのであり、大学の存在意義もそこにある。
この本来の目的が見失われているところに、大学生の質の劣化や大学職員の質の劣化も起こる。
つまり、大学へ行けなかった人の為に学問を修め、社会に貢献するのが目的ではなくなり、「自分自身の栄誉栄達の為」「自分自身の立身出世の為」が大学へ行く目的になってしまうからだ。
ここに「エゴのみの知的エリート」が誕生し、社会に貢献する為という本来の目的を見失った「利己的満足」のみを追求する「大学という閉鎖社会にのみ生きる」エリートが誕生する。
こういった「知的閉鎖社会のエリート」達が官僚となり、国家を運営していった時、いかに国民の心情とかけ離れた組織を築くかは容易に想像がつく。
もちろん「社会に貢献する為に」大学を目指す、高い志の学生もいる。
「自分自身の栄誉栄達の為」「自分自身の立身出世の為」に大学を目指すのと「社会に貢献する為」に大学を目指すのとでは、人生の結末そのものが変わってくるだろう。
栄誉栄達を手にしても、利己的で淋しい人生か、その反対に多くの人に慕われる心豊かな人生か。
何の為の大学か、を正しく見定める目を持たないと、自身の人生さえ狂わせることになりかねないと思う。
つまるところ「何の為に大学に行くか」の答えには、その人の人生観、価値観が集約されている、ともいえる。
しかし若者にそこまでの思慮を求めるのは無理なのかなあ、とも思う。