音の四季~風の彩

作曲家、しの笛・龍笛奏者、ジャズピアニスト、城山如水の徒然日記。
オカリナ、フルートの事も・・・・

「死んだら 神様・仏様」のナンセンス

2013年08月06日 | 日常雑感


古来からの世界の宗教の中でも、日本の宗教あるいは宗教観は相当おかしいと感じている。

「死んだ人や祖先」を「仏様」としたり、死んだ偉人を「神様」としたりするのは、自分の感覚としては非常に滑稽だ。

当然のことながら、親や友人、恩人が死んだ場合、いつまでもその恩に感謝し、いつまでも尊敬と親愛の念を忘れないように大切に思い続ける。

しかし、死んだ人が「神様・仏様」などと考えるのはナンセンスであり、滑稽だ。

生きている間にさえ「人を救う」ことさえできなかった者が、あるいは「自分の苦しみ」さえ救えなかったものが、死んだら「神様・仏様」に変身するのだとすると、これほど滑稽な話もない。

仮に「死んで神様・仏様」になったのだとすると、なぜ現実の世界で苦しむ人々に救いの手をさしのべないのだろう。

ここからしても「死んだら神様・仏様」というのは、神社の商売であり、葬式仏教・儀式仏教・観光仏教の商売ネタだということが分る。

第一、釈迦が弟子達の葬儀に係わったという記録は無い。

「葬式をしないと成仏できない」というのは葬式仏教が商売の為に考え出したことだ。

「死んで軍神となって靖国神社で再会しよう」というのもナンセンスだ。

なぜ死んだら「神」になるのか、これこそナンセンスの極みだと思う。

本来「神」とは非業の死を遂げて「祟る怖ろしい存在」のことだった。

靖国神社に祀られている戦死者が「軍神」となっているのは、「国家神道と軍国主義ファシズム」にたいして「怨念を持って死んでいった」ために、その「怨念を鎮める」というのなら、話がわからないでもない。

それはまあ特別な例とするとして。

日本の神社と仏閣は儀式と観光のための商売であり、その儀式は無形文化財であり、仏像・寺院建築などは美術品といっていいだろう。

「神社の神さんにお願いしていたら・・・賽銭箱の後ろから、少ない賽銭でようさん願い事しよって、とブツブツいう声が聞こえたと思ったら、神主さんだった」という笑い話がある。

仏教も同じだ。葬式で高い戒名料を取り、高い祈祷料を持ってかえる。

これは釈迦の仏教の精神とはまったく無関係の、「死者を崇める」ことにかこつけた商売といってよいだろう。

釈迦は弟子達の葬儀には係わっていなかったのだから。
現実社会で生老病死に苦しむ、「生きている人々」の救済が釈迦の実践だったのだから。


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