先日のNHKの「クローズアップ現代」で「四国お遍路をする若者達」が増えている様子を取り上げていた。
21世紀は「心の時代」といわれ続けてきた。
外国人の仏教僧ブームがあり、ニーチェブームがあり、いよいよ「若者のお遍路」ブームか・・・と思ってみた。
日常複雑な人間関係に悩み、人工的な街に閉じ込められている若者達にとって、「お遍路」は海・山といった広々とした自然と暖かい人間関係に初めて接する機会になるのだろう。
美しい自然を歩くことによって健全な身体が作られ「健全な身体に健全な精神が宿る」
道中に「般若心経」を読み、仲間と出逢い、暖かい接待を受け、人間関係に閉ざされた心を開く機会にも恵まれる。
ようやく日本の若者も「心を見つめる」時代がやってきたのかなあと思う。
しかしこれは、ようやく若者が「仏教」に接するようになった端緒に過ぎないだろうなあと思う。
「般若心経」を呪文を唱えるように音読していても何が書いてあるのか理解していなければ滑稽である。
「般若心経」を唱えれば心が落ち着くというのであれば、それにこしたことはないが。
普通はそこから、「仏教は何を説かんとしたのか」あるいは「自分自身の存在、自己とは何か」という問いに進む。
あるいは「自己存在の不条理」、自身が存在する「世界の不条理」に気付くことになる。
生まれる前に「自己」はどこにいたのかいなかったのか、死後はどこへ行くのか、あるいは無に帰するのか。
「自分自身、自己」について何も分からないまま「この世界に投げ出されている不条理」・・・ハイデッガーがいう「被投機性」
若者達の「いわゆる自分探し」は「現存在」を「存在せしめる」「存在」・・・すなわち「実存(ハイデッガー)」への憧憬、あるいは「存在<実存>探求への憧憬」であるように、自分には見える。