しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

ATSUKO SASAKI SOLO EXHIBITION 2021 灯影 ほかげ – 紡ぐ、繋ぐ

2021-06-20 17:42:00 | 美術
笹木敦子さんの作品が海の生き物をモチーフにしたものだということは聞いていた。
それで、海の生き物といえば……と、ギャラリー Space31(神戸、御影)への道すがら思い出していたのは、「目」の話。
生命の起こりは海からというのが定説だけれど、太古の昔、生命が海の底で目という器官を形づくったとき、それはわたしたちが「目」といってイメージする明確に像を結ぶカメラのようなものではなく、ただ明暗を感知する光のセンサーのようなものだったと。
旺盛な再生能力で知られる扁形動物のプラナリアが、ちょうどそんな目をもっているとか。
自分の目もまた、そんなセンサーの末裔、「見る」という行為は光の検知にすぎない、そう考えることがまさに、世界を少し違って見せてくれるようで、ある種の興奮を―――むしろある種の安らぎをもたらしてくれるようなのは、どうしてなのか。


ぼんやりそんなことを考えながらギャラリーに足を踏み入れたものだから、笹木さんの手製のフェルトで作られた彫刻作品の中心で、ひとつの眼球がこちらを見つめ返しているのを目にしたときは、ちょっとびっくりしてしまって。
作品のリストには「Felt sculptures sea anemone with glass eyes」。
「海のアネモネ」とは、イソギンチャクのこと。
こういう形のイソギンチャクがあるのかどうか、詳しくない。この生々しい眼球の存在はもちろん措くとして、尻尾を上げた猫のうしろ姿のようなもの(まさにそのお尻の穴のところに目玉がはめ込まれている)もあったり、愛嬌のあるデザインの作品が並ぶ。
素材は「100% raw wool」。笹木さんは「生の」羊毛から自分の手でフェルトを作り、それをオブジェやバッグへと成形していく。





展覧会は「灯影 ほかげ -紡ぐ、繋ぐ」と題されている。
ギャラリーのメインの展示室に並ぶのは、同じくフェルトで制作されたランプシェードの作品。そしてこちらもイソギンチャク、クラゲ、カイメン……そんな海の生き物たちの姿を模している。
過去の作品は赤や紫で彩られ、とてもカラフル。それがこのたびは、これが羊毛の地の色なのか、アイボリー単色で、その中にランプの灯がともっている。
これまでの刺激的な色彩の作品と対極的ともいえる静かな空気、というより静かな潮の流れが展示空間をただようような。


思えばこの灯りも、それ自身が光を放つ光源というよりは、外界からの光を反射して輝く目―――そして目というなら、それがその精妙をきわめた器官となる以前の、単なる光に対する感受性をもった細胞の集まり、「眼点」と呼ばれるものの位置を示しているのかもしれない。
いくつかのそんな反転が、確かに笹木作品にはあって。
陸上のものの海中のものへの反転。
柔らかいものの硬いものへの反転。
見られるものの見るものへの。


羊毛を手で圧し伸ばし、フェルトにし、それにまた形を与えていく作業に深く身を沈める中で、触れているはずのマテリアルにむしろ触れられ、と感覚する瞬間があることは想像がつく。あるいはそんな感覚がこのガラスの目玉の起源?
いずれにせよ、壁を押すということが同じ力で壁に押されることでもあるように、見るという行為が、また見られることであると告げているような、この目。





もし見ることが見られることであったとして、だけど、その視線の交わりは別々の意識の衝突という事態ではないだろう。
そもそも、聴く、匂うと同じで、見るという行為は大いに意識をはみ出している。
発生論的説明では、現在の私たちの顔に位置している器官の中で、何より重要なのは、口。
もちろん発声のためではなく、食べるため。
やがて口の周囲に種々の感覚器が整備され、捕食の条件をより有利なものにしていった。
そして脳もまた、そうした感覚器の情報処理のため、その近傍に形成された器官といわれる。
クラゲのように、脳をもたず、眼点で受け取った光刺激を直接筋肉に送る生き物もいる。


認知心理学でもいいし、ロボット工学でもいい、見るということは種々の部品、種々の情報処理によるメカニカルなプロセスと捉えられ、私たちもそんな話を納得して聞いている。
ただ、そんなセンサーやカメラとしての目と私たちの精神との関わりということになると、たぶんそれを想像的かつ具体的な仕方で表現するのが、芸術作品というものの領分。


なるほど、私たちはこんなふうに、同じ見るということを、私たちが見ているものとのあいだで分かち合うのかもしれない。
けれど、より注視すべきは、いったい何者とそれを分かち合っているのかということ。そこに作家や私たちのひそやかな欲望、そして希望が忍び込んでいる。
この、見ることの分かち合いをあわよくば梃子にして、いったいどちらの側に自分の視座を反転させようとするのか。
―――望むらくは、大地をたくましく駆ける獣の目でも、空たかくから鋭く獲物を狙う猛禽の目でもなく、彼ら海に潜むものの暗いまなざしの側に。
「生命の原点としての海」と作家自身が言う、その「原点」とはほかでもない、いまそこから出てきたばかりの非-生命の圏域と境を接する場所のことにちがいない。
複雑な器官の集積として、この地上に固く意志して生きる私たちからは、目もなく脳もなく、ほとんど機械、ほとんど死のようにさえ思われる彼ら、そんな彼らとして見る―――それはまた、ふるさとをのぞむようななつかしさで、その非-生命の国をまなざす目のこと。
この展示室にただよう、ついに誰のものともわからないそんな秘めやかな視線に、私たちの目が不意にかち合う。


ーーーーーーーーーーーーー

ATSUKO SASAKI SOLO EXHIBITION 2021 灯影 ほかげ – 紡ぐ、繋ぐ
2021.6.5 - 6.20 Space31(神戸市東灘区)

(t.y)


柳田國男『海上の道』

2021-06-06 14:05:00 | 引用
柳田國男の「海上の道」の冒頭近く。柳田が「寄物」(よりもの)と呼ぶ漂着物をめぐる一節。
かつて海岸に打ち上げられる流木がいまよりも遙かに多く、小さな島ではむしろ流れ着いた材木で生活の用を足していたという話。


……我々は国内の山野が、かつて巨大の樹木をもって蔽われ、それが次々と自然の力によって、流れて海に出ていた時代を、想像してみることができなくなっている。以前は水上から供給するものが、今よりも遙かに豊かだったと思われる。多くの沖の小島では、各自昔からの神山を抱えながら、それには慎んで斧鉞(ふえつ)を入れず、家を建てるにも竃(かまど)の火を燃すにも、専ら大小の寄木(よりき)を当てにしていた時代が久しく続いた。

……唐木と呼ばるる珍奇なる南方の木材が寄ってきた場合には、これを家々の私用には供せず、必ず官符に届けよという法令が、奄美大島の北部などには、旧藩時代の頃に出ている。


柳田國男『海上の道』(岩波文庫 p.21)


「海上の道」はもともと1952年におこなわれた講演。

楽市楽座

2021-05-31 10:35:00 | 都市
5.30

勿体ないという言葉は物に執着してしまう煩悩に違いない。

近所のガソリンスタンドが軒先で「楽市楽座」と銘打った長机を設置した。まだ使えるけど使わなくなった物や、ただ捨てるには惜しい物は、他の人には価値のある物かも知れない。そんな物品を長机の上に置いておけば、2〜3日の内には無くなっている。私も祖父母宅にあった伊賀焼の花瓶を置いたところ、翌日にはもう誰かが持ち帰った後だった。フリーマーケットのように収益は発生しないが、家の中から不要な物が出て行くだけで煩悩が一つ消えた気になる。

執着に引導を渡す場として「楽市楽座」。ガソリンスタンドの店主の心意気に感謝している。




シュプリッターゼルプスト Instagramこちら

シュプリッターゼルプスト Twitterこちら

ふわふわ卵の味噌ラーメン

2021-05-31 10:14:00 | くらし、商品
4.23

デジャヴのような週末。

幾度となく予定を変更してきた

昨年度の経験が

残念ながらいかされることとなる。

帰宅がかなり遅くなったので

冷蔵庫にあるもので

しかも手早く夕食を準備する。



「ふわふわ卵の味噌ラーメン」

材料:

即席めん(味噌味がベスト)

生卵(鮮度が仕上りに影響)

キャベツ(千切りがベスト)

ネギ(無ければそれも良し)

水、塩、黒胡椒、ごま油



1.鍋に水を入れ湯を沸かす

2.生卵を器に割り溶き卵をつくる

3.溶き卵に塩をほんの少々、

黒胡椒はたっぷり入れ

お好みでごま油を垂らす

4.湯が沸いたら、

即席めんとキャベツを入れ茹でる

5.茹で時間の半分が過ぎたら

味噌スープの素を入れかき混ぜる

6.溶き卵を回し入れ暫し待つ

7.ふわふわっと卵が固まったら

ネギを入れ火止め出来上がり



中学の頃、塾へ行く前に食べていたあの味がよみがえる。先ずは腹を満たす。厄介事の始末は、それからでも遅くない。




シュプリッターゼルプスト Instagramこちら

シュプリッターゼルプスト Twitterこちら

貞松・浜田バレエ団 創作リサイタル32

2021-03-20 23:27:00 | 舞踊
貞松・浜田バレエ団の「創作リサイタル32」が神戸文化ホール(中ホール)で開催されました。
上演作品はイリ・キリアン振付「Falling Angels」、コーラ・ボス・クルーセ/ケン・オソラ振付「Of Eden」、森優貴振付「囚われの国のアリス」の三作です。

とりわけ強い印象を残したのはキリアンの「Falling Angels」でした。
8人の女性ダンサーによって踊られる軽妙でユーモラスな雰囲気の作品ですが、不思議と、のっぴきならない≪死≫との戯れ――そんなふうに言い表わしたいものを感じさせられました。

後日「シュプリッターエコー Web版」により詳しいご紹介を掲載したいと考えています。


昨年3月の同バレエ団の「創作リサイタル31」はコロナ・ウィルスの感染拡大の影響を受けて無観客公演となりました。
なかでもアレクサンダー・エクマン振付「CACTI」は鮮烈でした。多くの観客の目に触れ得なかったのは残念なことです。
今年は、まだ座席を一つずつ空けてという形であるにしても、そして感染をめぐる状況はいまだ予断を許さないものだとしても、こうして素晴らしい水準の舞台をじかにみる機会が私たちに解放されたというのは喜ばしいことにちがいありません。
(takashi.y)



シュプリッターゼルプスト更新中

2021-01-04 03:26:00 | ノンジャンル
謹賀新年。
今年は少しでもよい年となりますよう。

こちらのブログや本家シュプリッターエコーはゆっくりですが、
「シュプリッターゼルプスト/週報シュプリッターエコー/または単なる「私」の日記」
の方は日々真摯に何となくアクティブに更新しております。
https://splitterselbst.tumblr.com/

そのインスタグラム https://www.instagram.com/splitterselbst_splitterecho/

そのツイッター https://twitter.com/splitterselbst

どうぞご覧ください。

旗谷吉員展 美術史絵画

2020-10-19 01:34:00 | 美術
神戸・新長田のcity gallery 2320で旗谷吉員さんの個展「美術史絵画」が開催されています(2020年10月10日~10月25日)。



ボッティチェリ、クラーナハ、クールベ……ルネサンスから近代まで、西洋美術史上の名画を題材に、油彩そしてコラージュで描かれる≪創造的模写≫。



写真右はクラーナハ(父)「アダムとイヴ」の油彩による「模写」、左はやはりクラーナハの別の「アダムとイヴ」を題材としたコラージュ作品。
このポルノ雑誌を使ったコラージュを前に感じる胸躍る楽しさは何でしょう。ここには興味本位のエロティシズムには収まらない創造性あるいはオリジナリティをめぐる本質的な問いかけがあるようです。



そして今度の作品展の会場には、オトナ向け特別展示室「ピカソのエロス部屋」も…!(子供さんもスイスイ入っていましたが)。



会期は10月25日まで。水・木・金 休廊。
city gallery 2320のホームページはhttp://www.citygallery2320.com/WW/product.topnews.html

(takashi.y)


トラウマ展 みてないことへの寄り道

2020-10-05 00:59:00 | 美術
先日、美術家の高濱浩子さんがファシリテーターを務める「トラウマ展 みてないことへの寄り道」を西宮市のアクタ西宮でみました(東館2階中央ひろば、9/19~22)。



「“こころの体験”をアートで表現してみませんか」と障がい者福祉施設や保健所などで呼びかけ、2019年から9回のワークショップを開催。そこで参加者に自由に描いてもらったという絵が展示されていました。

虐待、あるいはより広く「マルトリートメント」(不適切な養育)の記憶、友人との死別など、子供の頃に受けた心の傷が投影された絵が多く並びます。
発達障がいや精神疾患による生きづらさ、精神科病棟での辛い体験を描いた絵も。

一枚一枚の絵に説明や自己紹介が付されていて、人生にはこんなにも多くの種類の悲しみがあるものかと改めて感じさせられます。
そして、降りかかったその悲しみがただの「一種類」であっても、はかり知れない傷の深さがその人を一生涯とらえてはなさないということがあります。



ですが、そうしてワークショップを通じて2枚目、3枚目と描くうちに明るいトーンの絵に変わっていく人がいるようでした。
また、高濱さんと会場で少しお話ができたのですが、「とても重たい展覧会です」と正直に感想をお伝えすると、「でもね、ピカピカの額に入れてもらって、皆さんにも見てもらえて、次の一歩へ踏み出せそうですと話している参加者の方もいるんですよ」と。

それはすばらしい話だなと思ってうかがっていたのですが、実は展覧会をみながらいちばん気がかりに感じていたのは、自分がこんな心の傷を他人に負わせてはいないだろうかということです。
そして後日、この展覧会をみた知人から、母親としてやはり同じことを考えたという感想を聞きました。
確かに、トラウマを与える可能性にはたらきかけるという意味でも、意義深い展覧会であるのでしょう。

✴  ✴  ✴  ✴  ✴


展覧会の主催は「こころアート表現★プロジェクト」。オイゲン・コウ博士(オーストラリア)の活動に着想を得た武庫川女子大学の大岡由佳准教授の呼びかけではじまったプロジェクトです。

第2回展示が12月に予定されています。
大本山 須磨寺 護摩堂 2020年12月4日(金)~7日(月) 10時~15時

トラウマ展のホームページ
https://www.jtraumainformed-tic.com/

(takashi.y)


石牟礼道子『苦海浄土』から

2020-09-29 22:28:00 | 引用
あそこあたりが芦北の海。
あそこあたりが水俣の海。
あそこあたりから薩摩出水郡の空と、わしどもにゃ空の照り返しを受けて浮き上がっとる山々の形ですぐわかる。ひときわ美しゅう、かっかと照り映えとる夜空の下の山々のあいが水俣で、それが日窒の会社の燃やす火の色でござす。どうかした晩にゃ、方角違いの山の端のぼうとひろがって照りはえるときがあるが、それはきっとどこかに、遠か山火事の燃えよる夜空で……。

こどもの頃の夢がかなう

2020-09-23 00:05:00 | 美術
小学生の頃は、江戸川乱歩の小説に登場する少年探偵団になるため、裏山に隠れ家を作ったり、家族にも内緒で、探偵団の必需品である七つ道具を作って宝物箱の中に貯めておいたりした。でも、どんなに頑張っても小説の世界の中に入ることはできなかった。この現実の体が本の中に入る方法はないものかと考えてみたが、ついにその壁は越えられなかった。
ところがである、つい先日訪れたギャラリーで私は長年の夢をかなえることになったのだ。



city gallery 2320 (神戸市長田区)で現在開催中の「ズガ・コーサクとクリ・エイト 二人展」である。略してズガクリは女子ユニット。2009年から段ボールなどの廃材を使って、どこかでみたことのある風景を作っている。(チラシ文面を一部引用)
前回、6月に開催された「非常口」(内容はこちらの記事をご覧ください)は、もとの部屋の形状が思い出せないくらい空間が作品で覆われた。そして今回現れたのは、街中を走るバスとバス停。普段、まったく意識せずにみているあれである。ところが、ギャラリーに足を踏み入れるや否や私は心の中で「あああー」と震えたのである。

壁には路上の景色が描かれ、ずっと先まで道路が続いている。バス停の時刻表や日除けのシェードは立体で創作され、目の前にはこれも立体で作られた発車間近の市バスの車体(後部)が停車している。しかもそれは壁に描かれた車体(前半分)と途切れることなく融合しているのだ。平面と立体が混在しているのである。部屋の天井や壁に、まるで市バスが閉じ込められたようにはまっているのだ。





もちろんこれらは段ボールや廃材に彩色し描かれたものである。しかし、奇妙な迫力をもってそこに「実在のもの」として存在しているのである。今や私は作品の中に、その一部となって、つまりバスに乗り込む乗客として立っている!

この震えるような感覚は、現地に行って体験してみる以外説明のしようがない。

******************************************
「ズガ・コーサクとクリ・エイト 二人展」
9月27日(日)まで(23日のみ閉廊)
city gallery 2320
神戸市長田区二葉町2丁目3-20
http://www.citygallery2320.com
※二階もぜひご覧いただきたい。
キヌガワ