しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

あぶないぞ、神戸市バス

2014-06-19 22:02:00 | 都市
 きょうの夕方、神戸・三ノ宮駅前で市バス(18系統)に乗りました。
 6時43分発の麻耶ケーブル下回りJR六甲道駅行きです。

 発車してすぐ急停車したのです。
 あまりの衝撃に、中年の婦人があおむけに倒れました。
 ゴツンと大きな音がするほど床に後頭部をぶつけました。
 ひとりでは起き上がることができません。
 周りのひとたちが助け起こして座席を譲り、やっと落ち着いたようでした。

 運転士はとくに対応するわけでもなく、そのまま予定のコースへ出発しました。

 頭のことです。
 あとで症状が出ないか心配です。
 ぼくの叔母は、出がけに家の玄関で転倒して、そのときはなんの症状もなかったのですが、一週間ほどたってから家でとつぜん昏倒しました。
 頭の中にたくさんの血がたまっていて、もう手のほどこしようがありませんでした。
 すでに15年ほどになりますが、今も病院で生命維持装置につながれて眠っています。

 神戸市バスに最近またきょうのような荒っぽい運転が、ちょくちょく目立つようになりました。
 ぼくも、10日ほど前のことですが、降車する停留所が近づいたので立ち上がったところ、運転士がだしぬけに急ブレーキをかけて、おかげで吊り輪を握った手をちぎれるほど引き伸ばされ、肩を痛めてしまいました。
 いまもまだ痛みが続いています。

 どうも運転士の状況判断が悪いうえに、技術も落ちているようです。

 10何年か前まで神戸市バスは荒っぽい運転で市民のひんしゅくを買っていましたが、その後は目をみはるくらい改善されていたのです。
 ぶすっと運転していた運転士がみちがえるほど親切になり、決して無理な運転をしないよう、心遣いもなされるようになっていました。
 しかし、ここのところ、どうも危ないと思うことがふえています。
 また昔のように乗客を物のように扱う市バスに戻るのでしょうか。
 

バスの中で

2013-06-20 23:25:00 | 都市
 神戸の市営バスでのことです。
 きょうの午後、三宮に向かうバスに乗っていました(石屋川車庫前発)。
 都心も近い雲中小学校前の停留所に停まったときのことでした。
 もう発進するな、と思ったときに、とつぜん運転士さんが運転台から下りてきました。
 乗客たちの座席の方へ出てきたのです。
 なにか事故でもあったのかな、とどきっとしました。

 けれど事故ではありませんでした。
 ぼくのすぐ後ろまで進んできて、そこでそっとひとりの男の人に寄り添ったのです。
 「席が空いてますから、こちらへどうぞ」
 その男の人は目の不自由なかたでした。
 車内のようすがわからなくて、白い杖をたよりに不安そうに立っておられたのでした。
 運転士さんは、やさしく肩に手を置いて、男の人を席に導いたのでした。

 みたところまだ若い運転士さんのようでした。
 車内鏡でとっさに気づいたことのようでした。

 ぼくはじぶんのことが少し恥ずかしくなりました。
 そんな近くに目の不自由なかたがおられたのです。
 ほんとうならいちはやくぼくが気づいて、そのかたに席に空きがあることを教えてあげるべきだった、とそう思ったからでした。

 そしてそう思ったのはたぶんぼくだけではなかったように思います。
 まわりの多くの人たちがその瞬間ぼくと同じような気持ちになった、そういう雰囲気がありありと生まれていました。

 でもたぶん、こんど同じようなことがこの街であったなら、このときに同乗した人びとはきょうの運転士さんがしたのと同じことをタイミングをはずさずにするにちがいありません。
 そのような雰囲気も同時に生まれていたのです。

神戸市バスの運転士さんに感謝

2012-07-05 21:31:00 | 都市
 水曜日(4日)のことです。
 夜、家に帰るのに、バスに乗ったんです。
 JR三ノ宮駅から麻耶ケーブル行きの最終便です。
 神戸の市バスです。

 野崎通3丁目の停留所で降りようとすると、運転士さんがいきなり手を遮断機のように差し出して、止めるんです。
 神戸の市バスは降車口が前にあるものですから、そのような遮断機の役割を運転士さんができるのです。
 なんのことかわからないので、ちょっと呆然(ぼうぜん)となって突っ立つことになったんです。

 すると、運転士さんが「自転車」って、言うんです。
 運転士さんがそう言ったとたん、バスの降車口とバス停の標識との狭い空間(むろん歩道)を自転車がかなりのスピードで走り過ぎていったんです。
 若い男性が乗っていました。
 無灯だったと思います。

 やっとわかりました。
 運転士さんがバックミラーで自転車の接近に気がついて、危ない、ととっさの行動をとってくれたのでした。

 歩きはじめて、ぞっとしました。
 あのまま、もし降りていたら、たぶんぶつかっていたと思います。
 ぼくは腰と膝が悪いものですから、おそらく立ち上がれなかったろうと思います。
 運転士さんの機転のおかげで、ぼくは大けがをせずに済みましたし、おそらくそれで、その自転車の若者も救われたろうと思います(本人はそんなこと考えもしなかったでしょうが…)。

 ここ数年、神戸市の市バスの評判が市民の間でとてもよくなっています。
 昔はまるで暴走族のような運転士さんが坂道を疾走したり、まだドアが閉まりきっていないのに発車したり、ばんばん急ブレーキをかけたり、危なくってしかたがなかったのですが、ある日とつぜん運転士さんみんなのマナーがよくなって、まあ、それもいつまで続くことやら、と疑っていたのですが、もうたぶん五年以上もずっと続いているんです。、
 これはもう本物でしょう。
 ぼくの記憶が間違っていなければ、老人の無料パスが廃止されて、老人も一部料金を払うようになった、その前後から変化が始まったかなあ、と思うのですが。
 ただ、これは定かではありません。

 運転士さんが市民に信頼されるようになったからでしょうか。
 乗客の中にも、昔のように運転士さんに悪態をつくような人は見られなくなったように思います。

 このROUJINは水曜日の運転士さんに深く感謝しています。
 それで、このブログを借りました。

鳥たちに異変、何もなければいいんですが

2012-04-29 22:15:00 | 都市
 今年の春は鳥たちのようすが変ですね。
 悪い兆候でなければいいんですが。

 まずスズメがめっきり減りました。
 いつもの春だと朝からやかましいくらいさえずる声が聞こえるんです。
 向かいの建物の隙間で産卵しましてね。
 ところが今年は姿もあまり見かけないし、卵も産んでいません。

 それからツバメが来ませんね。
 ふつうだと、通り沿いの店々の軒ごとに巣を作って、いまごろはヒナがけたたましく鳴いているんです。
 でも今年はまだやっと二つがいほどが来ているだけで、それもまだ巣の修復をしているだけです。
 中に卵があるかもしれませんが、まったく寂しいかぎりです。
 空家になたままのたくさんの古い巣が、どれも幽霊屋敷みたいです。

 ベランダの鉢植えに毎年やってくるメジロの夫婦も、今年はとうとう来ませんでした。
 毎朝待ってたんですが。

 天変地異に野生の動物たちは敏感だというでしょう?
 いつもより静かなこの春は、そう思うととても不気味な気がします。

 といっても、ぼくら人間はどうしようもできませんからね。
 恐ろしいことが起こるにしても、ただ待っているほかしかたがない。

 そんなことが起こらなければいいんですが。

自販機の怪

2012-04-19 18:16:00 | 都市
 バス停のちょっと手前に飲み物の自動販売機があるんです。
 カワラぶきのふつうの民家の玄関口のすぐわきにあるんです。
 おととい、散歩の帰りにそこで三ツ矢サイダーを買ったんです。
 百円硬貨一枚と十円硬貨二枚を入れて、ボタンを押して、ドスン…。
 すると、そのときのことでした。
 すぐ横のガラス格子の引き戸がガラッとあいて、頭のはげた小さなおじいさんが顔を出して、言ったんです。
 「ありがとうございました」

 いきなりのことでびっくりしましたが、おじいさんが戸をあけようとしていたところにぼくがちょうどぶつかったんだろうと、すぐそんなふうに考えました。
 まあ、とびっきり偶然ということでもないでしょうから、家に帰ったころには無論そのことはもうほとんど忘れていました。
 おじいさんがあのちびまる子ちゃんのおじいさんそっくりなひとでしたので、その顔が少し尾をひいて残っていたかもしれませんが。

 そして、これはきょうのことです。
 また散歩の帰りにそこの自動販売機で三ツ矢サイダーを買ったのです。
 きょうは五十円硬貨二枚と十円硬貨二枚を入れて、ドスン…。
 すると、また引き戸がガラッとあいたんです。
 そしてまた、おじいさんが顔を出して、言ったんです。
 「ありがとうございました」
 すると、どうしてなのか、こんどはギョッとしたんです。
 なにか恐怖に近いものがザザッと体を走りぬけていったんです。 

 くどいようですが、ほんとうにちびまる子ちゃんのおじいさんそっくりな顔(むしろ頭?)なんです。

 あさってもまた散歩にいきます。
 ですが、あそこで三ツ矢サイダーを買う勇気がそのときに出るか、いまそれを思案しているところです。

闇のトイレでうろたえました

2010-11-28 23:00:00 | 都市
 加古川市の市民会館へ行ってきたんですがね。
 びっくりしましたねえ。
 トイレで、ナニしてる最中に電灯が消えたんです。
 キバってるまっさいちゅうに、とつぜんパッとね。
 うろたえました。

 親しくしてくださっている舞踊家が、伝統の作品や創作の作品を発表しましてね。
 見にいったんです。
 舞台は面白かったんです。
 とりわけちっちゃい子が、あれはもう天性の千両役者ですね、みんなのお株をひとり占めにしちゃったりして。
 爆笑、また爆笑…、とにかくかわいい。

 で、見てる最中に、急におなかがもよおしてきましてね。
 トイレに行ったってわけなんです。

 ぼくは足が悪くて、洋式でないとダメなんですが、洋式のは奥の二室。
 で、いちばん奥のほうに入って。
 ヤレヤレ。
 まあ、なんともいえない安らぎの気持ちですね。
 ごぞんじでしょう、あの至福のひととき。

 そりゃあ、上着をかけておくフックが中にないのには、ちょっとびっくりしましたよ。
 ぼくはズボン吊りを使ってますから、爆撃にかかるときには、どうしてもジャケットとその下のセーターを脱がねばならない。
 でも、かけようと思って、ドアの裏側の、ね、目の高さの少し上のあたり、あそこんところに見たんですが、ただのっぺりと白いだけ。
 突起がどこにもない。

 考えれば、まあ、これが最初のうろたえでしたが。

 けど、ないものはどうしようもないわけで、仕方がないから、水洗の水を流すときに押す取っ手、その取っ手の上にジャケットとセーターのふたつをなんとか重ねて。
 落ちてくれるな、と祈りながら。
 けっこうこわいですよ、あれ。

 まあ、そんなこんなで、ようやくのことコトに臨めたわけなんですが。
 
 ところがです。
 爆撃も佳境というところで、トイレの電気がなんのことわりもなく消えちゃった。
 真っ暗、いきなり。
 ほんとに真っ暗。
 いちばん奥の個室ですし。

 あんな真っ暗、ほかのところではちょったない。

 停電かな、と思ったんですがね。
 でも聞き耳を立ててみると闇を通ってかすかに舞台の音楽が聞こえてくる。
 ああ、そうか、節電なんだ。  

 しかしねえ、いくら節電てったって、公共施設のトイレまで消しますかねえ。
 ペーパーも手探りですよ。
 水洗の取っ手も手探り。
 ぼくは上着も取っ手に掛けてましたから、変なぐあいに動かすと、ポケットのものがずべり出てこないともかぎらない。
 そおっと、そおっと。

 それに、なんか、とてもみじめな感じ。
 トイレの個室の闇のなかでオロオロしてる姿なんて、いくら密室の中っていったって、この大の男ですからねえ。
 闇の中だから哀れな姿がいっそうくっきりと浮かんでくる。

 トイレって、ふつうでも人間の尊厳をおかす何かがありますが、これはもう決定的。
 
 で、マア、なんとか出ましてね。
 出て、出口に近い薄闇のなかで手を洗ってますと、案の定、勝手にともるんです。

 それでもまだなにか偶然のことが起きたのかなあという思いがあって、むろんヒマな人間のやることですが、外でまたしばらく見てたんですが、やっぱり少したつと消えるんです。
 女子の方も同時に消える。

 確定的なことを言いきるにはまだ材料不足とは思いますけど。
 きょう一日(日曜日)だけのことだったのかもしれんですけど。

 でも、想像どおり節電だったとしたら、平和な町だからできるんでしょうね。
 大都市であれをやったら、そのうち間違いなく性犯罪が起こります。 

桜満開

2010-04-03 22:21:00 | 都市
 神戸は桜が満開です。
 王子公園、須磨浦公園、都賀川沿い、護国神社…。
 
 おめでとう。
 街がいちだんと明るく映えます。

 生田川沿いに昔ほどの風情がないのは残念ですが。


私が行きたいのはどこですか

2009-03-09 01:43:54 | 都市
 きのうの夕方のことでした。
 阪急三宮の駅前のバス停で、中年のご婦人が乗ってきました。
 急いで運転手さんのところへ行って、言いました。
 「ナントカというバス停で降りなさいといわれたんですけど、忘れてしまって…」
 大阪か、京都か、どうやらそっちの方角から神戸を訪ねてきたひとのようです。

 「ナントカという神社の次の、ナントカという停留所なんですけど、そこ、このバス通りますか」
 「三宮神社のことですか」と沿線の神社の名前をあげる運転手さん。
 「いいえ、それとは違います」

 「護国神社ですか」
 「いいえ、それとも違います。…ナントカという神社の次のナントカという停留所なんです。行きません?」
 「ナントカの向こうのナントカでは…。ウーン、困りましたねえ」
 「ナントカ神社の次なんですが」
 
 運転手さんはちょっと発進を躊躇します。
 けど、文句を言う乗客はありません。
 にわかの禅問答にみな興味津津のようすです。

 駅周辺の日曜の雑踏はなかなかのものですが、いまやバスの中は別世界のような静寂です。
 三宮神社と護国神社のほかに神社と名のつくところがこの路線にあったろうか、とみな考えているのです。
 ご婦人は、もう頭の中が真白になっているけはいです。
 つぶやくような小さな声で言ってます。
 「ナントカ神社の次なんですけど…」

 「あっ」と声をあげたひとがありました。
 同じような年かっこうの婦人です。
 うしろの席から断固とした声で言いました。
 「五毛天神じゃありません、それ」

 ご婦人が喜色満面になりました。
 「そうです、ゴモウ天神です」
 「五毛天神のひとつ向こうが五毛です」
 「そうです、そうです、五毛です」

 バスが動きだしました。

 ぼくもホッとしながら、しぜんに笑いがのぼってきました。
 けれど、急にアハハと笑い声まで出そうになって、あわてて心を抑えました。
 変な連想をしたからです。

 ナントカの向こうのナントカ…。
 ふいに、麻生さんそっくりだ、と思ったのです。
 行方定まらぬ迷走のマンガ首相。
 ナントカのナントカのナントカのナントカの…。
 ナンカそんな感じで。

 あっ、奥さん、マンガ首相なんかと一緒にしてしまって、ごめんなさい。

田辺眞人さんに神戸・ロドニー賞

2008-12-16 15:26:15 | 都市
 神戸には「ロドニー賞」という不可思議な賞があります。
 ふつう賞というと、国とか自治体とか大きな企業がつくる財団とか、そのような権威のある機関が設けるものですが、「ロドニー賞」というのは権威というものとはまったく無縁な賞なのです。
 神戸の市民が神戸の街をおもしろくしてくれた人に「ありがとう」と心を込めて贈る賞です。
 正賞は地元の六甲山から採れた美しい御影石(花崗岩)の彫刻(抽象)です。

 18回目を数える今年は歴史学者の田辺眞人(まこと)さんに贈られました。
 神戸・元町の神戸凮月堂ホールで授賞式と田辺さんの記念講演が行われました。

 田辺さんは歴史学や比較文化論の分野で幅広い活動を繰り広げている学者(園田学園女子大教授)ですが、なかでも神戸の地域史に関しては生き字引のような人で、しかも驚くべきは、その膨大な知識が強靭(きょうじん)な構造をかたちづくっていることです。
 「神戸」のイメージを根底から変えてきた研究者として、多くの神戸っ子の尊敬のまとになっているのです。

 たとえば、源平の合戦のなかで語られる有名なトピックに「ひよどり越えの逆落とし」というのがあります。
 一ノ谷の合戦で義経が用いた奇襲戦法ですが、ただ現在の地図で見ると「ひよどり越え」は六甲山の奥にあたる神戸市北区にあり、一方「一ノ谷」は須磨区の海辺にあって、おそらくは10キロくらいは開いているこの距離をどう解釈したらいいか、長い間、神戸の市民を悩ませてきたのです。

 けれど田辺さんの新説は明解でした。
 源平合戦の当時、今の神戸市域のいろんな場所で源氏と平氏の衝突が起こるのですが、当時の人びとはその合戦のすべてを一ノ谷の戦いとして理解していたというのです。
 ある象徴的な一点を指し示すことで、その周辺の広大な地域も併せて語るということは、言われてみればよくあることです。
 細部を凝視しながら、しかし全体をも展望する歴史学者のみごとな解でした。

 それまでの市民の悩みは、しぜん現在のワク(地図)にとらわれて思考していた、その“常識”のせいでした。

 さて、ロドニー賞の「ロドニー」とは、神戸の開港時(1868年)に、その開港を祝うために訪れたイギリス艦隊の旗艦の名です。
 祝砲をドカンと撃って、そのころの神戸の町(村?)の人びとをびっくりさせたわけですが、来年もまた神戸の目をドカンと覚ましてくれた人にこの賞は贈られます。
 ちなみにあの大震災(1995年)の直後には、当時のブルーウェーブで大活躍を見せてくれたイチロー選手(現大リーガー)に贈られました。

祈りの心がない祭り――神戸まつり

2008-05-19 22:50:25 | 都市
 神戸で最も大きなお祭りが五月に催されます。
 神戸まつりといいます。
 今年は昨日の日曜日(18日)に開かれました。
 フラワーロードというメーンストリートで半日いっぱいパレードが行われます。

 ぼくもしばらく街角に立って見ていました。
 音楽の演奏とかダンスとかマスゲームとか、いろいろと工夫を凝らした隊列が続々と登場します。
 パレードとして見た場合は、そこそこのものだろうと思います。
 ただ、これが神戸を代表する「お祭り」なのか、という視点から見直すと、ちょっと首をかしげます。
 正直に言わせてもらえば、「お祭り」としては、おもしろくありません。

 ダンス教室とかバトントワラーズの教室とか、そういうおけいこの教室のこどもたちが延々と続きます。
 つまり、街じゅうの教室の発表会のようなのです。
 「お祭り」というよりは「大発表会」なのですね。
 子供たちにはいい思い出になるでしょうから、決してそれで悪いというわけではないのですが、残念ながら「お祭り」にとっていちばん大切な精神性というものがないのです。

 大阪の天神祭には天神さんを恐れ敬うことで人びとの平安を祈るという心があります。
 京都の祇園祭には怨霊を慰めることで都市の平安を祈るという心があります。
 でも神戸のこの祭りには、祈りの心というものがありません。
 どうしてもカラ騒ぎにしか見えません。

 20年ばかり前に神戸まつりを調査したある人類学者は、新しい都市型の祭りとして、やがてしっとりとした精神性が生まれるだろうと、楽観的な予言をしていました。
 けれどこの学者さんの予言は外れたようです。

 神戸まつりにはいつまでたっても、なにかがそこで成熟しているという感じがありません。
 心のない祭りなんて、どだい成立しないのではないでしょうか。