しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

コバナシをひとつ

2014-12-02 18:16:00 | ノンジャンル
 きょうは小話をひとつ。

 ある小学校の1年生の教室。
 算数の時間。
 「太郎クン」と先生が問いかけました。「太郎クンはいま手のなかに100円のお金を持っているとします。そして太郎クンのパパは500円のお金を持っておられます。それを太郎クンにくださったとすると、太郎クンのお金はいくらになりますか」
 太郎クンはちょっと考えてから、こうはっきりと答えました。
 「100円です」
 「おやおや」と先生はあきれたという顔で言いました。「お父さんが500円くださたんですよ。キミはまだ算数がわかってないねえ」
 すると太郎クンは、すこし口をとがらせながら言いました。
 「先生はぼくのパパのことがぜんぜんわかってないんだから」

考古なのか、犯罪なのか

2010-02-04 22:56:00 | ノンジャンル
 ラジオをかけたらニュースをしていました。
 沖縄の洞窟で人骨が見つかって、調べたら2年前のものとわかったというのです。
 おっ、殺人事件か、と思いました。
 するとアナウンサーがあわてて言いなおしたのです。
 「失礼しました。2万年前の人骨とわかりました」と。
 成人の男の骨で、これまで日本で発見された人骨のうち最も古いものだということです。
 実は考古学上の新発見だったわけなのです。

 でも、ニュースが終わって、ふっと考えました。
 ひょっとしたら、2万年前の殺人の跡が洞窟で発見されたのかもしれないぞ、と。

 とすると、これは学問の分野になるのでしょうか、犯罪の分野になるのでしょうか。

童話の童話―三匹の子ぶた

2009-09-10 23:27:00 | ノンジャンル
 木の家を作った子ぶたとレンガの家を作った子ぶたは、待ちかまえていました。

 ワラの家を作った子ぶたを襲った例のぶた食いオオカミが、もうぼちぼちこちらへやってくるころだと考えていたのです。

 でもオオカミはなかなか襲ってきませんでした。

 そこでシビレを切らした二匹の子ぶたが様子を見にいくことにしたのです。

 すると、途中でオオカミが死んでいました。

 ワラの家の子ぶたを襲ったまでは「三匹の子ぶた」の言い伝えどおりに運んだのですが、その子ぶたを食ったおかげで、このわれらが時代のオオカミ氏はぶたインフルエンザにかかって、死んでしまったのでした。

 そこで生き残った二匹の子ぶたが言いました。

 「なんだ、手間のかかる家なんか作って、損したなあ」 

童話の童話―オオカミ少年

2009-08-25 22:23:00 | ノンジャンル
 オオカミ少年がきょうもまた「オオカミが出たア」と叫びながら村に走り込んできました。

 でも、もう、だれも本気にしませんでした。

 オオカミ少年はするともっと大きな声でもう一度「オオカミが出たア」と叫んで、村から走り出ていきました。

 もちろん、だれも本気にしませんでした。

 すると、オオカミの大群がやってきて、村人はみんな食べられてしまいました。

 生き残ったのは少年ひとりだけでした。

おしらせ―ギリヤーク尼ケ崎さんの記事

2009-05-31 12:14:00 | ノンジャンル
 大道芸人を自称する舞踊家・ギリヤーク尼ケ崎さんの神戸公演の記事を、本ブログに5月6日付けで掲示しましたが、さらに詳しい記事を本ブログの姉妹サイト「Splitterecho」に掲げました。
 ちかぢか、公演写真も併載する予定です。

 ご関心のあるかたは、ご訪問ください。

 Splitterechoは http://www16.ocn.ne.jp/~kobecat/


舛添さんの反論に共感―新型インフル

2009-05-21 19:20:00 | ノンジャンル
 今日の参院予算委員会で国民新党の自見(じみ)庄三郎さんが、新型インフルエンザの対策について厚生労働大臣の舛添さんを追及していました。

 自見さんの追及の内容をかいつまんで言えば、新型インフルエンザはほとんど普通の季節性のインフルエンザと危険度が変わらないのだから、もう過度な警戒体制は解いて国民の生活をふだんの状態に戻せ、というものでした。

 これに対して舛添さんは、なによりも国民の生命を第一に考えたい、識者の意見を踏まえて近々、次の方針を打ち出すが、当面は現在の警戒体制を堅持したい、国民の生命についての危機管理は過度なくらいがいい、と反論しました。

 いま渦中にある神戸の一市民としては、舛添大臣の反論のほうに強く共感をおぼえます。

 確かに今の警戒体制は都市機能を抑制しますが、しかしだからといって今すぐそれを解けというのはあまりにも暴論に思えます。
 自見さんの意見の背景には、このままでは都市経済が停滞するという心配があるのでしょう。
 しかし神戸の現状を見るかぎり、商店の顧客が急減しているのも、なにも行政の感染対策が直接の原因というわけではなく、個々の市民の防衛行動の結果なのです(きょう三宮の中心にある地下商店街が全面休業になりましたが、それも顧客が激減したために商店街が行った自主判断です)。

 自見さんはたぶん渦中にある市民の大きな不安に実感を持っておられないから(もちろんそれは無理のないことです)、都市の表層的・形式的な側面だけを見てあのように言われるのです。
 それにこと神戸に関する限り、ビールスがまんえんしているときにわざわざこの街に観光に来たいという人がそうあるとも思えません。

 ここはひとつ、舛添さんに、国民の生命を守るという原点に立ってあとひと踏ん張りがんばってもらいたいと思います。
 自見さんのようなあらっぽい論理ではなく、実態を踏まえ、知見を踏まえ、論理的にも現実的にも緻密(ちみつ)な判断をしていただきたいと願います。

 さて、神戸ではいまバラが盛りです。
 庭に大輪のバラを植えている家が多いのです。
 きょうは風が強くて、そのバラたちがどこでもユサユサと揺れました。

人間の心で神戸を満たそう―新型インフル

2009-05-21 11:20:00 | ノンジャンル
 大切なことは、たとえ壁で隔離されても、内側と外側との心の連帯を結び続けることです。

 あなたは決して除外されたのではない、という思いを外側から内側へ送ることです。
 あなたは闘っている、わたしたちはあなたを見ている、あなたを応援している、そういう気持ちを送ることです。
 内側からも外側へ向かって、見ていてください、がんばります、感謝しています、とそういう心を送ることです。

 そういう心でこの神戸という街を満たすことです。

 ビールスはなにも一個一個が独立して向かってくるのではありません。
 類としてのビールス群が類としての人間群に攻撃を仕掛けているのです。
 わたしたちも類として立ち向かわないといけません。

 感染者を孤立させるようなことがあったら負けなのです。
 神戸の街を人間の心で満たしましょう。
 治療も薬剤もむろん不可欠なものですが、人と人をつなぐ心もまた大切なものなのです。

 神戸の市民みんなが心を連帯させながら、この試練を乗り越えましょう。

市民を勇気づける神戸の医師―新型インフル

2009-05-20 22:57:00 | ノンジャンル
 神戸市では、新型インフルエンザの感染者の急増で、指定病院だけでは対応がむずかしくなって、一般の病院でも診察をしてもらえることになりました。

 受け入れる病院にとっては大変なことでしょうが、神戸市医師会の会長さんが、わたしたちは医師としてできるかぎりのことをする、と言っておられました。

 よその地域でそこのお医者さんがそのようにがんばると言ってられても、それはそうだろうなと思うくらいで、あまり心は動かないだろうと思いますが、わたしたち市民と一緒にまさに渦中にある神戸の医師がそのように明言されると、本当に勇気づけられます。
 今いちばん言ってもらいたいことを言っていただいたような気がします。

 ありがたいことだと思います。
 よし、みんなで一緒にこの試練を乗り越えよう、と鼓舞されます。

 神戸市民のみなさん、がんばりましょう。

                ◇
 ところで、神戸に住んでいるものの実感としては、いま神戸や大阪など関西の感染増がクローズアップされていますが、ほかの大都市でも見えないところで感染が進行しているように思えてなりません。

 神戸の場合は神戸高校の校医さんが状況を鋭く見て、そこから急いでカウントが始まりましたから、他都市よりも早く感染の事情が表に現われてきましたが、もしこの校医さんの第六感がなかったなら、いまだに感染は隠れたままだったかもしれません。

 当初かんがえられていたような深刻な症状がすぐには出ないで、ほとんどふつうのカゼのようなあらわれ方をしますし、場合によってはそのまま治ってしまう人もあるようですから、じつは見逃されていてもまったくおかしくないのです。

 東京などでいぜん内部からの発生の報告がないというのは、無いほうがむしろ異常なことのように思えます。
 症状に間違った先入観があって、ふつうのカゼや従来のインフルエンザとして扱われているものがけっこう多いのではないでしょうか。

 表面に出てきたときには、ちょっと遅きに失して、とほうもない数字が出てくるかもしれませんから、そのときになってパニックにおちいらないよう、心の準備をしておいた方がいいと思われます。

 よけいなお世話かもしれませんが。

沈黙の都市、神戸―新型インフル

2009-05-19 15:30:00 | ノンジャンル
 神戸の街は、これまでのふだんの日に比べると、ずいぶん静かです。
 ひとびとは最小限の行動で一日を送っているようです。
 いままでの空騒ぎが夢のようです。

 最小限の仕事、最小限の買い物、最小限の会話(これはマスクという物理的な存在のためでもあります)、最小限の勉強…。

 そして見えないものに目を見張っています。
 大きな沈黙が街を支配しているということでもあります。

 大震災のときには、ひとびとはより大きく動き、より精力的に出会い、より多くしゃべりました。
 今は、より小さく動き、よりつつましく出会い、より少なくしゃべっています。

 しかしとても心をうつことが一つあります。
 沈黙のなかでひとびとがより深く考えているということです。
 生と死のこと。不安と希望のこと。家族のこと。隣人のこと。人間というもののこと。

 ひょっとしたら、と思うのです、こっちのほうが人間のもとの姿ではないのか、と。

 もっとも、あと一点だけ付け加えておかないといけないことがあります。
 どんなときにもいちばん底を根強く流れている楽観的な気分。
 これは、この開放的な街のひとびとの特性です。