さて、こうして僕らは毛色のちがう3つの経路を手に入れた。
(1)「Splitterecho シュプリッターエコー」(プレス版)
(2)「Splitterecho Web版」
(3)「しゅぷりったあえこお nano」(ブログ版)
(1)から(3)への流れは批評の定義の拡大に対応していると言っていい。
要するに、ユルくなっている。
マラルメがひとりで執筆・編集しつづけた「最新流行」のように、ここでは世俗のあらゆる事象が批評の対象になる。
芸術批評(これも大層な言葉だ)に限らず、テレビドラマ批評、化粧品批評、料理批評、旅行批評、書店批評…様々な批評があり得るだろう。
感想というならそれでいい。
「熟考」と「質」がプレス版の要なら、「速度」と「量」がこのブログ版の命だ。(Web版はその中間を行くものだろう。)
いや、もうはっきり、ここでは質より量が問題なのだと言っていい。
マラルメが数々の筆名を使い分けたように、この匿名のweb世界で僕らひとりひとりが「ミス・サタン」となり「ブルトンの女城主」となり、書きに書くことだ。
僕らもまた多数になるということ。
そうして指にまかせてキーを打ち続けること。
熟考の末編み出される批評が、作品をひとつの宇宙とみなし、汲めども尽きぬ豊かさをそこにみいだす作業なら、より速やかな反射運動としてアップロードされる「軽率な」批評たちは、夜空に次々と昇る暗い小さな星たちであり、それらの布置に僕らは現在の星座が浮かび上がるのを待つ。
あるいは、それらひとつひとつの砂の集積に、現在という砂漠をみて呆然とするのかもしれない。
しかし僕らが求めるのはいつでも希望だ。
かくも多くの心動かす事象があり、かくも多くの感銘を与える人々がいるということ。
希望を支えているのは、ひとつの巨大な重力、ひとつの統一原理ではなく、あらゆる水準を通じていつも、多様性である。
そして、このサイトもまた、ひとつの星だ。銀河系のオリオン腕の一角にある僕らの太陽系のように、無数の星の漂うwebの銀河に新しく参入した小さな光である。
その場所でかくも多くの事象と人々が存在することを証立てるwebという壮大な事業の、無限小の一翼を担っている。
僕らのナノ・メートルのまたたき。
それはそれでいい。
(1)「Splitterecho シュプリッターエコー」(プレス版)
(2)「Splitterecho Web版」
(3)「しゅぷりったあえこお nano」(ブログ版)
(1)から(3)への流れは批評の定義の拡大に対応していると言っていい。
要するに、ユルくなっている。
マラルメがひとりで執筆・編集しつづけた「最新流行」のように、ここでは世俗のあらゆる事象が批評の対象になる。
芸術批評(これも大層な言葉だ)に限らず、テレビドラマ批評、化粧品批評、料理批評、旅行批評、書店批評…様々な批評があり得るだろう。
感想というならそれでいい。
「熟考」と「質」がプレス版の要なら、「速度」と「量」がこのブログ版の命だ。(Web版はその中間を行くものだろう。)
いや、もうはっきり、ここでは質より量が問題なのだと言っていい。
マラルメが数々の筆名を使い分けたように、この匿名のweb世界で僕らひとりひとりが「ミス・サタン」となり「ブルトンの女城主」となり、書きに書くことだ。
僕らもまた多数になるということ。
そうして指にまかせてキーを打ち続けること。
熟考の末編み出される批評が、作品をひとつの宇宙とみなし、汲めども尽きぬ豊かさをそこにみいだす作業なら、より速やかな反射運動としてアップロードされる「軽率な」批評たちは、夜空に次々と昇る暗い小さな星たちであり、それらの布置に僕らは現在の星座が浮かび上がるのを待つ。
あるいは、それらひとつひとつの砂の集積に、現在という砂漠をみて呆然とするのかもしれない。
しかし僕らが求めるのはいつでも希望だ。
かくも多くの心動かす事象があり、かくも多くの感銘を与える人々がいるということ。
希望を支えているのは、ひとつの巨大な重力、ひとつの統一原理ではなく、あらゆる水準を通じていつも、多様性である。
そして、このサイトもまた、ひとつの星だ。銀河系のオリオン腕の一角にある僕らの太陽系のように、無数の星の漂うwebの銀河に新しく参入した小さな光である。
その場所でかくも多くの事象と人々が存在することを証立てるwebという壮大な事業の、無限小の一翼を担っている。
僕らのナノ・メートルのまたたき。
それはそれでいい。