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命の根源へ下りていく―犬童徹展

2012-06-03 20:22:00 | 美術
 犬童徹(いんどう・とおる)さんの展覧会を神戸・王子動物園前の原田の森ギャラリーで見てきました。
 70歳を迎えたのを機に50年に及ぶこれまでの画業を振り返る自選展です。
 100号を超える大作がいくつも並ぶ分厚い展覧会になりました。

 犬童さんは一貫して馬をモチーフに描いてきた作家です。
 馬の力強さ、優しさ、繊細さ、ときには痛々しさが重厚なタッチで描かれます。
 そしてそれは、たんに馬そのものの豊かな様態にとどまらず、世界の深部の表現へ、さらには宇宙の奥の表現へと進みます。
 幾つかはこれまでの個展ですでに見ていたものでしたが、初めて出合った絵の中では「月の道」という作品に心を惹(ひ)かれました。
 40代に制作したもの、ということでした。

 何頭もの馬が二列に分かれて、右と左から向き合う格好で並んでいます。
 二列の馬の間が、ひとすじの道のように開いています。
 そのひとすじの道の向こうに、ぽっかりと満月が出ています。
 とても静かな絵なのです。
 馬たちは物思いにふけっている表情です。

 思い出したのは、宮沢賢治の「なめとこ山の熊」の最後の場面のことでした。
 熊たちが月の下で輪になって座っていて、その輪の中心には、ひとつの遺体がありました。
 たくさんの熊を殺してそしてついに自分が熊に殺されることになった、そういう老いた猟師の遺体です。
 熊たちは物思いにふけっているふぜいです。 
 でもそれは、復讐を遂げた感慨ではありません。
 そこにあるのは、たぶん深い共感です。

 死んだ猟師の顔も熊と同じように穏やかです。

 「月の道」と「なめとこ山の熊」に共通しているのは、その静けさと穏やかさと物思いの深さです。 
 それから、核心の部分はついに言葉にはできないだろうと、そのように直観しているこのぼくらの、むしろ安らかな絶望です。
 おそらくそれは、言葉にしてはならないものが言葉にされずに守られた、その美しい作法への安堵(あんど)です。

 現代の生命科学の世界では、命は粘土から生まれてきたいうのが、かなり有力な仮説だそうです。
 粘土の小さな結晶が、さまざまな炭素の化合物を吸収し、貯め込んで、その炭素化合物の助けを借りながら、粘土の結晶の増殖そして再生を始めたというのが、命の最初の形だったというのです。

 するとまもなく、炭素同士が粘土をとばして自分たちで結び付き、増殖と再生に乗り出して、現在の生命の原型をつくりあげたというわけです。
 炭素が粘土を乗っ取って、今見るような命の形が出来上がってきたという仮説です。
 
 ここでとても心を打たれるのは、ぼくたちの生命の原型が、どうやら粘土の上に描かれた炭素化合物と炭素化合物との見えない関係(ネットワーク)、もう少し突っ込んで言うならば炭素化合物たちの間に張り渡されることになった不可視の関係(ネットワーク)、つまり無機物と無機物との間に生まれた「抽象的な関係」がもとになっているらしいという、そのことです。
 まるであぶり出しに現われる絵のように、「生命」と呼ばれることになる「抽象的な関係」が無機物というモノの上に浮き上がってきたわけです。

 なぜ急にこんな生命起源の話に移ったかといいますと、犬童さんの馬のビジョンも宮沢賢治の熊と人のビジョンも、その「抽象的な関係」と深くつながっているように思えるからです。
 モノとモノの具体的な関係に還元できてしまうなら、話はずっと簡単です。
 けれど、ここに現われるのは、モノとモノの隙間にできる、余りのような世界です。

 しかし、実はその余りの部分に、生きているというこのことの基盤があるのではないか、とそんなふうには思えませんか。
 鼓動しているものは、実はみえないところに基盤がある、と。

 そうだとすると、現代のぼくたちは世界を逆立ちした形で見ているのではないか。
 そんなふうに考えさせられた絵なのでした。 

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