木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

64年目の教訓「国を信じるな」

2009年08月12日 | Weblog
64年目の戦争特集。
NHKの核問題の特集は旧ソ連の核実験場になったカザフスタンのパラチンスク村の放射能被害だった。
今年の核に関する視点は今までとちょっと様相が違うなと感じた。
オバマ大統領の「核廃絶」宣言は、核保有国にとっても核は厄介なお荷物で、廃絶に向かっていくしかないことの表明でもある。
核を保有するということは、核実験が欠かせないし、保持している核兵器を事故のないよう管理していかなければならない。
それが自国民にもいかに犠牲を強いたものであったかを伝えたのがパラチンスク村の放射能汚染被害だ。
しかしこれは旧ソ連だけの問題ではない。アメリカの実験でも、またフランスの南太平洋の島々での実験による被害も同様の問題を含んでいる。
「核の抑止力」だの「核の傘」だのという理屈がいかに議論のための議論であって、現実の放射能被害の前には空疎なものでしかないことをこれらのドキュメンタリー番組は教えてくれていた。
もう一つNHKハイビジョンの「市民達の戦争」は、戦争というものがいかに一般の人々を犠牲にするものであるかを、生き残った人々の証言や手紙で浮き彫りにした。
「都市民の満蒙開拓」。
満蒙開拓というと疲弊した農村の救済策としてあったという認識を持っていたが、東京武蔵小山の商店街の人たちが、戦争の進行に連れて商売ができなくなり、慣れない農業に生活の活路を見出して、満州に渡って、終戦時の混乱で多くの犠牲者を出していたことを初めて知った。
非戦闘員が戦闘に巻き込まれ犠牲になった例は、「沖縄」をもって語られるが、南の島々でもまた人々は沖縄とほぼ同じ犠牲を強いられた。
サイパン、テニアンといった南洋諸島もまた満蒙と同様、生きるために日本人が移住した地だった。
「青森大空襲」。
1000人以上の人がこの空襲で犠牲になった。
犠牲者の多くは、空襲を恐れた郊外への避難を禁じられた結果だった。
1945年7月のこの時期、米軍に空襲されたらなすすべはなく、逃げるしかないのであったが、青森県および青森市は配給停止をカサに郊外への避難を禁じた。
市民は配給が停止されたら生きていけないので市街に戻って来たところを空襲にやられたのだった。
これら理不尽な犠牲は、私達一人一人が、おかみという言い方で代表される国家政府を信じてはならないことを教えてくれているのだが、今の時代もまたすきあらば「だましてやろう」ということでは変わりがない。
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